自由民権運動って、いろんな事件がありすぎで頭がごちゃごちゃになるんだよね…。

全体を3つの段階に分けて理解するのがポイント。

 

自由民権運動とは、明治初期に起きた民衆の政治運動のことをいいます。

今回はこの自由民権運動の全体的な流れについて解説させていただきます。

自由民権運動の流れは、次の3つの段階に分けて理解するのがポイントです。

 

自由民権運動の3つの段階

  • ①民選議員設立建白書~西南戦争
  • ②西南戦争終結~最盛期
  • ③激化事件による衰退~国会開設

 

なお、自由民権運動に関連する主な事件を年表でまとめると以下のようになります。

 

主なできごと 流れ
1873 征韓論 第1段階
1874 愛国公党の結成
立志社の結成
民撰議員設立建白書の提出
佐賀の乱
1875 立憲政体樹立の詔
大阪会議
愛国社の結成
讒謗律制定
1876 神風連の乱
秋月の乱
萩の乱
1877 西南戦争
1880 国会期成同盟の成立  第2段階
集会条例制定
1881 国会開設の勅諭
明治十四年の政変
自由党(板垣退助)結成
立憲改進党(大隈重信)結成
立憲帝政党(福地桜痴)結成
1882 福島事件 第3段階
高田事件
1884 自由党解党
群馬事件
加波山事件
秩父事件
飯田事件
名古屋事件
1886 静岡事件
1887 大同団結運動
1889 大日本帝国憲法発布
愛国公党再結成
1890 第一回総選挙
愛国公党→立憲自由党に改称
 第一回帝国議会開催
1891 立憲自由党→自由党に改称

 


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自由民権運動の流れ:第1段階

自由民権運動の流れ
(板垣退助の像)

自由民権運動のそもそものスタートは、板垣退助が征韓論(朝鮮半島に攻め込むべきだ、という主張)敗れ、政府の役職を辞任したことから始まります。

(これを明治6年の政変といいます:板垣は「攻め込むべきだ」派)

このとき一緒に政府の役職を辞めた人たち(政府に不満を持った人たち)は大きく分けて2つのグループに分かれます。

1つ目は西郷隆盛を中心とするグループで、「武力行使で戦う」という人たち。

もう1つは板垣退助を中心とするグループで、「政治活動で戦う」という人たちです。

後者の「政治活動で戦う」という選択をした人たちの活動が自由民権運動というわけです。

①-1:民選議員設立建白書の提出

まず、板垣退助は愛国公党という政治グループをつくります。

当時の政府は薩摩藩(鹿児島県)、長州藩(山口県)出身者で有力ポストが独占されている状態であったため、これに不満を持つ人たちが続々と板垣退助のもとに集まってきます(後藤象二郎、江藤新平、副島種臣など)

彼らは「どこの出身者でも政府の有力ポストにつけるように、国会を作れ」という主張を始めます。

この主張を書面でまとめたのが「民撰議員設立建白書」です。

政府は無視しますが、愛国公党の動きをみた民衆は同じように政府に対して不満を訴え始め、自由民権運動の雰囲気が盛り上がっていきます。

なお、板垣退助は愛国公党の他にも、日本全国でどんどん政治グループを作っていきます(なんだかAKBその他を各地で作った秋元康みたいですね…)

 

板垣退助が各地に作った政治グループ

  • 愛国公党:東京
  • 愛国社 :大阪
  • 立志社 :土佐(高知県)

後にはこれらが1つになって板垣を中心とする政党「自由党」が作られます。

 


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①-2:大阪会議で板垣が政府に戻るが、結局また辞職

自由民権運動の盛り上がりを無視できなくなってきた政府は、2つの対策をとります。

1つ目は立憲政体樹立の詔を出すことで、元老院や大審院、地方官会議といった政治の仕組みを作っていくことを天皇の名で宣言します。

もう1つは大阪会議です。

大阪で会議を開き、板垣退助らを政府に復帰させようとします(つまり、政権内に取り込もうとします)

これにいったんは板垣も折れて政府に戻りますが、同じく復帰した木戸孝允らとの対立を修復することはできず、板垣は結局はまた辞職することになります。

①-3:武力行使グループが次々に敗れていく

上で「明治6年の政変で政府を辞めた人たちは2つのグループに分かれた」という話をさせていただきました。

念のために再度確認すると1つ目は西郷隆盛を中心とする武力行使派、2つ目は板垣退助を中心とする政治活動派でしたね。

武力行使派は次々に政府に対する反乱をしかけていきますが、いずれも失敗に終わります。

 

武力行使派が起こした反乱

  • 神風連の乱:太田黒伴男:熊本県
  • 秋月の乱 :宮崎車之助:福岡県
  • 萩の乱  :前原一誠 :山口県
  • 西南戦争 :西郷隆盛 :鹿児島県

※いずれも失敗に終わり、武力行使派は自由民権運動に合流していきます

 


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自由民権運動の流れ:第2段階

最大の反乱は西郷隆盛による西南戦争でしたが、これも失敗に終わります。

この失敗によって「政府に武力行使で戦うのは無理」=「政治活動で戦うしかない」という流れとなり、自由民権運動はさらに盛り上がっていくことになります。

(政府に反感を持つ人たちがどんどん自由民権運動に参加していきます)

②-1:愛国社が国会期成同盟に発展

板垣退助が東京に作った愛国社は、全国的な組織「国会期成同盟」へと発展します。

同じタイミングで、高い地租(土地税)に不満を持っていた農民層も国会期成同盟に参加し、自由民権運動はさらに盛り上がっていったのです。

国会期成同盟をはじめとする政治グループたちは、それぞれの主義主張を織り込んだ憲法(国の運営ルールを定めたもの)を作ることまで始めます。

こうした自由民権運動派の動きに対して、政府は讒謗律(ざんぼうりつ)集会条例(もう少し後ですが)といった法律を制定して言論統制を図ろうとしますが、時代の流れは完全に国会を解説する流れになっていたのです。


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②-2:明治14年の政変で大隈重信が辞職

この間、大蔵大臣についていた大隈重信が政府を辞職します(明治14年の政変といいます)

大隈重信は政府内にいながら、政府メンバーの汚職事件(開拓使官有物払下げ事件)をきびしく批判したことで、「うるさいやつは辞めろ」ということで辞職させられてしまったのです。

怒った大隈重信は自ら政治グループを作って自由民権運動の流れに合流していきます。

大隈重信は後に板垣退助の自由党と並んで、初期の国会をリードする立憲改進党を結成することになります。

②-3:ついに国会開設の勅諭が出される

ここまできて、ついに政府は国会開設の勅諭を出します。

国会開設の勅諭というのは「10年後の1890年には国会を作るから、ちょっと待っててくれ」という内容の天皇の宣言です(もちろん、政府が天皇に指示して出させたものです)

もともと自由民権運動は国会の開設を求めて始まったものですから、この国会開設の勅諭が出されたことでひと段落ということで新たな段階に入っていくことになります。

10年後に国会を開く、ということが約束されたということは、10年後には選挙を行うということでもあります。

選挙に勝たないと意味がありませんから、有力者たちは政党(同じ政治的主張を持った人たちのグループ)を結成していきます。

このとき結成された政党の中で、もっとも有力な政党は次の3つです。

 

国会開設直前に作られた主な政党

  • 自由党  :板垣退助が結成
  • 立憲改進党:大隈重信が結成
  • 立憲帝政党:福地桜痴が結成(政府に近い主張)

 


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自由民権運動の流れ:第3段階

この時期には自由民権運動に対して困窮した農民層が多数合流している状態になっています。

人数が増えればそれだけ過激な行動をとる人もまぎれこんでくるのは避けられません。

自由党や立憲改進党などの政党も、一部の過激派の人たちが政府につかまってしまったことにより、政党としての活動に制限が加えられてしまいます。

③-1:激化事件による自由民権運動の鎮静化

政党活動にあいまって、次のような過激な「激化事件(テロ活動も辞さない過激な政治運動)」が相次いで起きます。

 

主な激化事件(政党構成員が起こした暴力事件)

  • 福島事件
  • 高田事件
  • 秩父事件
  • 大阪事件
  • 群馬事件
  • 加波山事件

 

政府も「さすがにこれは許さん」ということで、政党の活動に対する規制を一気に強めていき、板垣退助の自由党は解散、大隈重信の立憲改進党は休止とされてしまいます。

国会開設の勅諭によって10年後(1890年)の国会開設がせっかく決まり、選挙を目前にしているのにもかかわらず、ここにきて自由民権運動は鎮静化させられてしまったことになります。


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③-2:最後のふんばりどころ!大同団結運動

第1回目の総選挙を3年後にひかえた年(1887年)、「もうすぐ選挙なのにこんなことをやっとる場合か」ということで、自由民権運動を再度結集しようという動きが生まれます。

これが大同団結運動です。

大同団結運動の中心となったのは、もともと板垣退助とは同郷で、自由党の主要メンバーでもあった後藤象二郎です。

大同団結運動によってまた自由民権運動は盛り上がりを一時的に見せます。

しかし、板垣退助や大隈重信といった大物がこの運動には参加しなかったことや、後に後藤象二郎も政府に取り込まれてしまったことから、空中分解のような形で終わってしまいます。

その後、さまざまな政治的な動きがありながらも、結局、板垣退助は愛国公党を再結党して選挙に備えることになります(なお、愛国公党は名称を「立憲自由党」と改めます)

立憲改進党は大隈自身が離脱している状態(このとき大隈は政府に戻っています)で選挙を迎えることになります。

③-3:大日本帝国憲法発布

このタイミング(1889年)で、大日本国憲法が発布されます。

第1回の選挙はもう翌年に迫っている状態ですから、選挙後に作られる国会や、政府の権限を定めたルールである憲法はこのタイミングで出す必要があったのです。

憲法をあらかじめつくっておかないと、選挙で勝った人間が勢いに乗ってそのまま政府を牛耳るというような事態にもなってしまいかねないからです。

政府の中心人物であった伊藤博文は、そのような事態にならないよう、天皇の権力が強い大日本帝国憲法をあらかじめ制定しておいたというわけですね。


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③-4:いよいよ第1回総選挙!

いよいよ約束の1890年がやってきました。

この年に行われたのが第1回衆議院議員総選挙で、総議席数300席をめぐる結果は以下のようになりました。

なお、「民党」というのは自由民権運動派で、「吏党」というのは政府に同調的な人たちのグループです。

第1回の総選挙では、下のように「民党」のグループが勝利することになります(板垣たちのグループ)

派閥 政党名称 議席数
民党 立憲自由党 130 171
立憲改進党 41
吏党 大成会 79 84
国民自由党 5
その他 無所属 45
総数 300
第1回衆議院議員選挙の結果
(第1回総選挙の結果)

民党は第1党の立憲自由党と第3党の立憲改進党の合計数で、300議席数の171を獲得して過半数を形成することになりました。

この後、選挙で選ばれた議員が第1回の帝国議会を運営することになりますが、多数派を形成した民党は政府(山形有朋内閣)と厳しく対立することになります。

ここまでが自由民権運動の流れです。


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自由民権運動はなぜ起きたのか

自由民権運動ってそもそもなんで起きたの?

薩摩藩や長州藩など「強い藩出身者」だけが優遇されているのに不満を持った人たちが始めたのが自由民権運動

 

明治政府はもともと薩摩藩(島津家:現在の鹿児島県)と長州藩(毛利家:現在の山口県)が中心になって作った政府です。

当然、政府を支配するのは薩摩藩や長州藩出身者ということになります。

こうした状況を「藩閥支配」と呼びますが、これに反対する人々も武力によって状況を打開することは難しいことを悟ります(武力による反対は西郷隆盛の西南戦争の鎮圧により終わります)

また、武力によって内乱を起こせば、外国勢力につけ込まれて日本の独立さえ危うくなる状況でもありました。

そのため、藩閥支配の政府に反対する勢力は武力以外の方法(言論)によって状況を打開しようとします。

まさしくその動きが自由民権運動というわけです。


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自由民権運動はどんなことを主張したの?

自由民権運動の人たちって、結局何を主張したかったの?

国会を作って、強い藩の出身じゃなくても政治に参加できるようにしてほしかったんだ。

 

初期の自由民権運動は、国会の開設を最大の目標として政府を言論で攻撃します。

西南戦争直後の明治政府は、薩摩、長州出身者に独占された政治だったので、他の藩の出身者は政府に参加するために国会を作るよう求めたのです(当時、内閣制度や憲法はまだありません)

国会を作ることができれば、選挙によって国民の代表者が選ばれることになります。

選挙に勝ちさえすればいわば合法的に政府を乗っ取ることができるわけですから、武力によらなくても薩長による支配をくつがえすことが可能になります。

国会の開設に備えて政党結成が進む

さらに、選挙に勝つためには同じ政治的主張を持つ人が集まる政党を作ることが圧倒的に有利です。

選挙運動も個人でやるよりグループでやるほうがはるかにたくさんの票集めにつながりますよね。

そのため、国会開設の主張と合わせて、自由民権運動派は自分たちの政治グループ(政党)を作る動きを進めていきます。

(そうして国会開設前にできた最大のグループが、立憲自由党と立憲改進党です)

自由民権運動は誰が中心となって進めた?

自由民権運動って誰が中心人物だったの?

やっぱり大物は板垣退助と大隈重信の2人。

 

自由民権運動とは簡単に言うと「政府への反対運動」ですが、その反対運動も各自がばらばらに行っていたのでは有効な手立てを打つことができません。

そこで、自由民権運動は当時の有力者のもとに集まって活動する方向に動いていきます。

以下では自由民権運動の中心となった2人の人物(板垣退助と大隈重信)についてみていきましょう。

自由民権運動の重要人物①:板垣退助

板垣退助は西郷隆盛とともに征韓論で敗れ、明治政府を辞職します(これを明治六年の政変といいます)

西郷隆盛が武力によって反乱を起こしたのに対して、板垣退助は明治政府に対し言論で戦いを挑みました。

板垣退助は、明治政府は薩長中心の官僚組織ではなく、国民が主権者となり、国会を作って国が進む方向を決めるべきと考えます。

板垣退助の運動は明治政府の弾圧にもまけず、10万人の委託を受け国会期成同盟を設立するところまで進みます。

国会期成同盟は、さらに進んで明治政府に対して国会開設の請願書を出すことになります。

板垣退助はその後自由党という政党を作り、国会のスタートに備えることになります。

自由民権運動の重要人物②:大隈重信

自由民権運動の重要人物として忘れてはならないのが、大隈重信です。

大隈は一般民衆からも非常に人気の高い人物で、後年にも政府が一般民衆からの支持を失う場面でピンチヒッターとして総理大臣を引き受ける場面が多くなります

大隈重信はもともと政府の一員でしたが、明治14年の政変(政府内の薩摩勢力の不正を、大隈重信を中心とする勢力がリークし、その報復として大隈重信が罷免された事件:開拓使官有物払下げ事件)によって政府を辞めさせられてしまいます。

その後大隈重信は立憲改進党を結成し、自由民権運動の一翼を担うことになります。

自由民権運動は日本に何をもたらしたのか

自由民権運動で、日本はどう変わったの?

国会ができて、だれでもがんばれば政治家になれるようになったよ。

 

自由民権運動の結果、薩長出身者を中心とする広く国民から意見を取り入れる仕組みを作らざるを得なくなります。

それが国会(帝国議会)の開設です。

国会は選挙によってえらばれた議員が集まって、政府に対してさまざまな主張をする場です。

選挙によって議員が選ばれる以上、薩長出身者以外にも政治にかかわる機会が与えられるということになります。

さらに、選挙に勝つためには同じ主張を持った人たちが集まって政治活動を行うことが重要になります(これが政党の誕生です)

国会の開設に先立って板垣退助は自由党を、大隈重信は立憲改進党を、さらに政府は立憲帝政党を作ります。

自由民権運動がなくても国会は作られたはず?

明治初期の日本人にとって、最大の関心ごとは「いつになったら外国と結んだ不平等な条約を撤廃できるのか」ということでした。

自由民権運動がもし起こっていなかったとしても、欧米列強と対等な日本を目指す明治政府は遅かれ早かれ国会は作ったのは間違いありません。

国会がなく、近代的な法律がないことが、日本が外国から不平等条約を飲まされている原因だったためです。

しかし、政府はもっとゆっくりとこうした動きに対応していく予定でした。

自由民権運動という政府の外からの強烈の反対運動がもしなかったとしたら、日本に国会が開かれるのはもっと遅くなっていたでしょう。

不平等条約の内容

不平等条約というのは、①領事裁判権(治外法権)を認めることと、②関税自主権が認められないことの2つを指します。

念のためこれらの意味を確認すると以下の通りです(学校で習う内容ですね)

 

不平等条約の2つの内容

  • 治外法権を認めること:外国人の犯した犯罪については、外国人の裁判官が裁判をするというルール
  • 関税自主権がないこと:外国との貿易にかける関税(税金)を政府がコントロールする権利が認められない

 

近代的な刑法の無い国家に、自国民の裁判をさせるわけにはいきませんから、欧米列強は日本に領事裁判権を認めさせるということになりました。

そして、近代的な商法の無い国家に貿易にかかる税率を決められては困りますから、関税自主権は認めてもらえませんでした。

近代的な刑法や商法は、国会(立法府)が作るものです(政府が勝手に作ったものは近代的な法律とは言えません)

だから、不平等条約は日本に国会というものがないことが原因として存在するものだったのです。

明治日本の国会開設と憲法制定

明治政府の日本の近代化の第一ハードルは中央集権国家の建設です。

そもそも江戸時代の幕藩体制は地方分権の典型的な形です。

江戸幕府は全国に対しての徴税権すらもっていないのです。

バラバラだった国をまず、中央集権化し、強い権力で強引に牽引する必要があったのです。それが官僚主導であったのは、当時の状況から見れば、仕方ないでしょう。

しかし、在野から巻き起こった自由民権運動により、明治政府は、国会開設を余儀なくされます。

なぜ、国会と憲法が必要だったのか

国会を創る前に、明治政府は憲法の制定を急ぎます。

明治政府は在野の民意に押される形で、国会を作るという方針を打ち出します。

国会を作るということは、政府の外の人間が国会議員になって、政府に影響力を及ぼそうとしてくることでもあります。

政府はこれを避けるため、「日本の政治は天皇を中心とする政府がコントロールする(国会には限られた権限しか認めない)」という内容の憲法を作ります。

急進的なフランス人権思想に基づく、板垣退助らの主張は当時としてはかなり過激なものです。

その過激さゆえにかれは、同じ改革の意見を持っていた人物に刺されます。

急進的すぎて危険だということだったのです。

一方、下野してから自由民権運動に加わった大隈重信は、イギリス的立憲君主主義の考え方をベースとして立憲改進党を作るのです。

そして、明治政府はプロイセンの影響の強い、大日本帝国憲法を創ります。

これは、既に暗殺されていた大久保利通の示した路線踏襲したものでした。

明治憲法制定の背景

国会の開設に先立ち、伊藤博文(長州藩出身)を中心とする明治政府はまず憲法の制定準備を始めます。

明治憲法、つまり「大日本帝国憲法」は欽定憲法です。

これは、国民が作ったものではなく、天皇が国民に与えた憲法であるということです。

明治憲法は、初代内閣総理大臣となった伊藤博文が中心となり、プロイセンの憲法を手本に創り上げて言ったものです。

この源流は、岩倉使節団に同行した大久保利通の考えが色濃く残っていると考えられます。

実際、暗殺されるまで、明治政府のトップであった大久保利通はイギリスが手本とするには、あまりに日本との国力の違いすぎることを痛感します。

そして、イギリスに追いつこうとするプロイセンに注目するのです。

日本が目指したのは政府の力が強い国

この流れの中、国会開設を迫られた明治政府は、天皇を中心とした国体による中央集権的国家の近代化を目指していました。

国会がこの方針の阻害要因にならぬよう、憲法は準備されました。

現代の目から、後世の後知恵で言えば、大日本帝国憲法や、国会は近代化が完了し欧米列強と対等となった以降に、欠陥を露呈していきます。

ただ、それまでは日本の近代化を推進していきます。

欧米以外でまともな憲法を持って、国会を持つ国などなかったのです。

それを持つということだけで、当時は国際的に価値のあることだったのでしょう。

ただ、どのような制度で会っても時間の流れの中で、不整合を起こし、使う人間次第で、どうにでもなってしまうことは、今を生きている私たちも気をつけねばいけない点かもしれません。

最初の選挙はお金がないと参加できなかった

自由民権運動の勢いに後押しされる形で、明治政府は国会開設の詔を出します。

この結果国会が作られるのですが、その形は、自由民権運動の中心を担った板垣退助の考えていた物とは、大きくことなったのです。

国会議員を決めるための第一回衆議院選挙が実施されますが、それは一定額以上の税金を納めた者しか選挙権の無い制限選挙でした。

また、大日本帝国憲法により、旧大名などの「華族」の地位が定められ、国会は衆議院と貴族院の二院制となるのです。

貴族院には、華族の人しかなれませんそして国会の持つ「立法権」は天皇の立法権の協賛機関という位置づけになるのです。

今の国会とはかなり形の異なる物でした。

まとめ

今回は、自由民権運動の流れについて解説させていただきました。

日本は現在も選挙で選ばれた国会議員が政府のメンバーとなる制度を採用していますが、その源流は自由民権運動が作ったといえるでしょう。

当時の日本が課題と考えていたことはどういうことか?を考えながら、自由民権運動の流れをていねいに追っていくと、日本の政治の歴史がよく理解できるようになります。

ぜひ参考にしてみてくださいね。


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