大隈重信って右足ふっ飛ばされたの?

外務大臣をやってたときに弱腰の外交姿勢が気に入らない右翼青年に爆弾テロでやられた。
ただ大隈本人はその青年を「勇気のあるやつ」と評価してたらしい。

 

早稲田大学の創設者で、政治家としても有名な大隈重信。

彼の政治家生活は決して平穏なものではなく、爆弾テロに遭うなどまさに波乱万丈そのものです。

ここでは彼が爆弾テロに遭った理由、そしてテロにより失われた右足のその後についてご紹介します。


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大隈重信が右足を失った原因とは?

大隈重足の右足
(大隈重信が右足を失ったときの状況とは?)

大隈重信は、当時外務大臣として不平等条約の改正交渉を行っていました。

その交渉の進め方が気にくわない右翼青年の爆弾テロに会い、右足を吹き飛ばされるという事件が発生します(もちろん、命をねらったものでした)

 

批判された大隈重信の外交姿勢

明治21(1888)年、大隈は伊藤博文の要請を受けて外務大臣に就任します。

この当時、政府最大の外交課題は欧米諸国と結んだ不平等条約を改正することでした。

大隈は段階的に不平等な条約を平等なものにしていくことを目指します。

その第一歩として、ある程度は妥協した内容でも良い、という姿勢で交渉を進めていったのです。

しかし、大隈のこの態度は「そんな段階的なやり方ではなく、手っ取り早く進めるべきだ」と考える人々からは批判を受けることになります。

大隈重信の外交政策を具体的にいうと…

大隈が目指したのは「治外法権の撤廃」です。

治外法権とは日本国内で外国人が起こした事件については、①外国人の裁判官が、②外国の法律によって、裁判をするというルールのことです。

大隈はこのうち①の「外国人の裁判官が裁判をする」という条件をまず段階的にはずしていくことを目指します。

裁判所の判事が外国人だと、外国人が起こした犯罪については甘い判決が下る可能性があるからです。

(実際、この直前の1886年にはノルマントン号事件という「英国人判事による英国人のえこひいき判決」が出されていました)

具体的には、最高裁判所(当時は大審院)の判事に外国人判事を任用するという形をとろうとします。

この内容がイギリスの新聞で紹介されると、国内から日本の司法権が侵されると激しい反発が生じたのです。

この反感は、外交交渉を担当していた大隈自身にも向けられることになります。

明治22(1889)年10月18日、右翼活動家の来島恒喜が、大隈の乗った馬車に対して爆弾を投げつけたのです。


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大隈重信はテロの犯人にさえ好意的だった

大隈重信は後に早稲田大学となる東京専門学校の創設者となったように、「勇気のある若者」を愛する傾向があった人物です。

みずからが受けた襲撃事件についても、彼らしいエピソードを残しています。

 

襲撃犯人を「エライ者」と評した大隈重信

大隈重信を襲撃した犯人は、大隈に爆弾を投げつけた直後、短刀を用いて自害してしまいました。

一方の大隈は爆弾によって膝と足首に重傷を負い、その治療のために右足を切断することとなります。

けれども、意外なことに大隈は来島の行為に対して、むしろ好意的な反応を示していたのです。

大正8(1919)年に刊行された大隈の談話集『青年の為に』の中に、来島に対する大隈のコメントが残されています。

この本によると、大隈は来島のことを「エライ者」と評価していたそうです。

その理由について大隈は、「外務大臣なりし吾輩に爆裂弾を喰わして、当時の世論を覆さんとする其勇気は、蛮勇でも何でも吾輩はその勇気に感服するのである」と語っています。

大隈は当時の政治家の中でも、特に国民から親しまれた人物として有名です。

このコメントに示されるような豪快なキャラクターが、人気の秘訣だったのかもしれないですね。

大隈重信の命を救った妻綾子の決断

爆弾テロに遭っても一命をとりとめた大隈ですが、その際に妻の綾子が果たした役割が有名です。

襲撃によって大隈重信は右足を切断しますが、大隈の命を救うため、医師にとっさにその指示を出したのは妻の綾子だったのです。

大隈綾子は明治2(1869)年に重信と結婚するのですが、彼女は生粋の江戸っ子で義侠心に富み、とても気丈な人物として有名でした。

大隈が爆弾テロで重傷を負った時、当時の医療水準では足を切断しても命が助かる保証はありませんでした。

そのため周囲が足を切断すべきか決めかねていたのですが、綾子が率先して足を切断することを決断したのです。

「早稲田四尊」からも称賛された妻綾子

大隈の部下であった市島謙吉は、大正11(1922)年に刊行された『大隈候一言一行』において当時を振り返りつつ、大隈の命が助かったのは「夫人の勇断力にも負うところが少なくなかったのである」と述べています。

この綾子の決断がなかったら、果たして大隈の命はどうなっていたのか…。

綾子の決断は大隈の命を救っただけでなく、日本の歴史も大きく変えたのかもしれません。

なお、市島謙吉は早稲田大学の初代図書館長を務め、早稲田大学の基礎を築いた「早稲田四尊」の1人に数えられる人物です。


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大隈重信の右足は現在はホルマリン保存中?

切断した大隈重信の右足がホルマリン漬けで保存されてるって聞いたんだけど…。

早稲田大学で保管してる。ただし、一般公開はなし。

 

ちなみに大隈の切断された右足は、その後本人の希望もあってアルコール漬けにされ、大隈の自宅で保管されていました。

しかしその後、保管にかかる費用もかさんでしまったため、大隈の右足はまず赤十字中央病院に寄贈されることとなります。

実は大正11(1922)年に大隈が亡くなった際、右足も一緒に埋葬しようという案が持ち上がりました。

しかし赤十字社は大隈を記念する意味と医学上の研究に資する目的から、その後もホルマリン漬けにして右足を保存することを決定します。

残念ながら一般公開はされていない

こうして長い間保存された右足は、1998年に赤十字社から早稲田大学へ返還され、早稲田大学で更に樹脂加工をされることになりました。

その後に、早稲田大学から大隈の菩提寺である佐賀県の龍泰寺に移されて現在に至ります。

残念ながら、龍泰寺では大隈の右足は一般公開されていません。

けれども爆弾テロから100年以上たった現在でも、大隈の右足は大切に保管されているのです。

まとめ

大隈が爆弾テロに遭って右足を失ったのは、不平等条約の改正をめぐって国内から強い反発が生じたのが原因でした。

そして切断された右足は一般公開こそされていないものの、現在も郷里の佐賀県で大切に保管されています。


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