井伊直政が亡くなった原因って何?

有力なのは破傷風説と鉛中毒説。
いずれにしても関ヶ原の戦いで負った傷が原因で死んでしまった。

 

徳川四天王の一人として有名な武将、井伊直政。

華々しい出世街道を駆け上がっていった直政は、関ヶ原の戦いで受けた銃撃が原因となり死亡しました。

井伊直政の死因についてくわしく見ていきましょう!


Sponsored Links

井伊直政の死因は破傷風?それとも鉛中毒?

井伊直政の死因
(井伊直政の死因は破傷風?鉛中毒?)

井伊直政の死因としては①破傷風、もしくは②鉛(なまり)中毒という2つの説が有力です。

①破傷風は傷口から菌が入り込むことによって起こる感染症のことです。

一方で、②鉛中毒は体内に鉛の成分が蓄積されることによって起こる中毒症状のことですね。

いったいどちらが、本当の井伊直政の死因なのか?について現在提唱されている説それぞれの根拠についてまとめます。

①定説は破傷風による死亡説だが…

まず、破傷風説。

死因は銃創(銃による傷)から細菌が入り込んだことによる破傷風という説です。

破傷風は、傷を負って3日から3週間以内には発症し、全身のけいれんや呼吸困難などですぐさま死に至る可能性の高いものです。

ただ、井伊直政は関ヶ原の戦いで傷を負ってから亡くなるまで1年5か月の間は持ちこたえているのです。

この点、破傷風による死亡という説明はやや不自然な部分があります。


Sponsored Links

②ホントの死因は、鉛中毒だった?

近年、井伊直政の死因は鉛中毒だったのではないかという説が唱えられています。

それは、体内に残った鉛製の銃弾が溶け出し、麻痺や貧血、嘔吐といった一連の中毒症状を引き起こしたというもの。

当時の外科技術であれば、体内に銃弾が残ってしまったことは想像に難くありません。

これなら撃たれた後、それなりの時間が経過して死亡したことのつじつまが合います。

じわじわと苦しみながら、直政は衰弱していったのかもしれません。

井伊直政が銃弾に倒れたときの状況

井伊直政って、なんで銃弾で撃たれたの?

関ヶ原の戦いの大づめのシーン。
「島津の退き口」を食い止めようとしたときに負傷した。

 

関ヶ原の戦いは西軍を率いる石田三成と、東軍を率いる徳川家康の戦いでした。

東軍の勝利が決定的になった時、西軍の一武将である島津義弘は戦場を離脱するために決死の覚悟で敵陣突破を図ります。

これが有名な「島津の退き口」ですが、これを食い止めるべく戦ったのが井伊直政の軍勢なのです。

「島津の退き口」に立ち向かった井伊直政

井伊直政は手勢ともに、敢然と島津軍に追い打ちをかけます。

そのさなか、直政に敵の銃弾が命中しました。

撃たれた場所は右肘、もしくは右肩、左腕とも言われていて定かではありません。

重傷を負いながらもどうにか本陣に帰還した直政の身体に、家康は自分の手で薬を塗ったそうです。

関ヶ原の戦いから1年と5ヶ月後の、1602年の3月24日。

井伊直政は41歳でこの世を去りました。

もう一つの忘れてはいけない要因「過労」

関ヶ原の戦いは東軍の大勝利に終わりました。

その後、井伊直政は重傷を負いながらも戦後処理の事務で中心的な役割を演じます。

次でも解説させていただくように、井伊直政は徳川家康のもとで「外務大臣」のような立場で活躍していました。

当然、敗れた西軍側の所掌は彼を通じて徳川家康に許しを請おうとしますから、負傷している井伊直政のもとにはたくさんの面会や事務が舞い込んでくることになります。

このタイミングでの過労により、彼は亡くなったという側面もあるでしょう。


Sponsored Links

「外務大臣」の立場にあった井伊直政

当時の直政は、言わば徳川政権の外務大臣ともいえる役割を演じてきた武将です。

見た目も良く、知略にたけた直政は、家康にとっては「どこに出しても恥ずかしくない部下」だったことでしょう。

戦いが終わっても、重責を担う彼には傷の養生をするひまがなかったのは確かです。

こうして体力を消耗させたことが、死につながったという側面は無視できません。

出世街道を駆け上がっていた直政は、家康の子でずば抜けた才覚を期待されていた松平忠吉を、自分の娘に嫁がせて婿(むこ)にしています。

直政が家康から受けた信頼と、家臣団内でのゆるぎない地位が、かえって彼の死を早めたことになった可能性があるのはとても皮肉ですね。

主君から与えられた大きな責任を全うし、元は新参者だった井伊家を、なんとしても徳川政権内でトップに立たせるだという執念が、傷を押してでも直政を仕事に向かわせたのかもしれませんね。


Sponsored Links

直政死後の井伊家

直政が死んだ後、井伊家ってどうなってしまったの?

徳川政権内での重要ポストを代々引き継いでいく。
とくに有名な子孫は幕末のあの人。

 

関ヶ原の戦いの後、井伊直政は西軍を率いた石田三成の領地、近江国佐和山を家康から与えられます。

関ヶ原の戦いを起こした張本人である石田三成の領地をそのままほうびとしてもらったわけですから、家康がどれだけ井伊直政を重要視していたかがよくわかりますね。

ただし、関ヶ原の戦いの1年5か月後に直政は死んでしまいますから、その後は長男の井伊直継が継ぐことになります。

このころ、直政が死んだのは、元々の佐和山藩の主であった石田三成のたたりではないかという噂があったようです。

そこで佐和山上の代わりに彦根城を建設し、1606年、井伊家の家臣一同そこに移り住むことになります。

これが彦根藩の始まりです。

彦根藩は江戸からは遠く離れていますが、京都や大阪に近い重要地域ですから、この地に幕末まで井伊家を置き続けたのは徳川家からの信頼のあかしと言えるでしょう。


Sponsored Links

井伊直政の次男:井伊直孝

直継は病弱であったため、家康は1614年の大阪冬の陣の際に、改めて次男の井伊直孝が藩主になります。

この直孝の子孫が代々、井伊家の当主に就いていく形となります。

その後3度に渡る加増で、彦根藩は30万石もの領地を獲得するに至ります。

大大名となった井伊家は、譜代大名の筆頭として、幕府の要職を担っていくことになります。

幕末の大老:井伊直弼

井伊直政の子孫の中で、特に有名なのが幕末の井伊直弼です。

彼は黒船来航直後の1858年、大老に就任し、安政の大獄に代表される強権政治を行います。

この時点では井伊家の血筋は徳川幕府内での最高権力を獲得していたといえるでしょう。

江戸時代を通して徳川家に忠勤を尽くした井伊家は、明治維新後の1884年には伯爵家になり、華族に列せられることになります。

その後現在まで、井伊直政の血統は受け継がれているのです。

まとめ

1603年、家康が征夷大将軍に就任するのを見ることなく、直政は世を去ることになってしまいました。

井伊の赤鬼として、戦での傷を恐れずに戦う勇猛果敢な姿勢が、最期には仇となってしまったことには、歴史の皮肉を感じずにはいられませんね。


Sponsored Links