明治天皇のお父さんの孝明天皇って、暗殺されたの?

孝明天皇が亡くなった当時の状況が明治新政府にとってあまりにも都合がよいので、昔から暗殺されたんじゃないか?って疑われている。

 

天皇は、今日でも日本国の象徴として特別な地位を占める存在ですね。

しかし歴史上は、権力闘争の中で非業の死を遂げた天皇も少なくありません。

ここでは暗殺が疑われる幕末の天皇、孝明天皇を取り上げます。

果たして孝明天皇は本当に暗殺されたのでしょうか?

そしてもし暗殺されたのなら、犯人は誰だったのでしょう?


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孝明天皇が暗殺されたといわれる理由は?

孝明天皇暗殺説
(孝明天皇は暗殺された?画像は京都御所)

孝明天皇暗殺説の根拠は、「孝明天皇が亡くなったタイミングが、当時の明治維新派にとってものすごく都合のよいタイミングだった」ことにあります。

誰かがなくなった時に、そのことによってものすごく得をした人がいたら、「ひょっとしてその人が殺したんでは?」という疑いを持たれるケースがありますよね。

当時は明治維新を目指す薩摩藩や長州藩といったグループと、幕府を存続させようとする徳川家を中心としたグループが天皇をめぐって対立している状況でした。

孝明天皇は攘夷のため、幕府に協力していた

孝明天皇は、後でも見るように「外国が大っ嫌い」という性格の人でした。

そのため、「外国をやっつけるためには、幕府を応援してあげないと」という考え方を持っていたのです。

明治維新派(薩摩藩や長州藩)は幕府をやっつけて自分たちが政治の中心に座ろうと考えていますから、彼らにとっては孝明天皇の考え方はとても困ることになります。

孝明天皇は朝廷と幕府の結びつきを強め、幕府の権威向上を目指す公武合体政策にも協力しています。

このように孝明天皇は攘夷を求めつつ、そのために幕府との関係強化を望んでいました。


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孝明天皇は、大の外国嫌いだった

孝明天皇は大の外国人嫌いで、外国との交流に強く反対した人物として有名です。

孝明天皇の在位した1846年から1867年は、欧米列強がアジアに進出し、日本が開国を迫られた時期と重なります。

このような情勢下で孝明天皇は開国に反対しており、1858年に老中(幕府の中心人物)堀田正睦がアメリカとの通商許可を求めても、強硬に反対して勅許を与えなかったほどです。

また孝明天皇は外国との交流に反対するだけでなく、外国人を排撃する攘夷運動も支持していました。

そのため孝明天皇は、幕府に対して繰り返し攘夷決行を要求していきます。

孝明天皇を暗殺すれば、討幕派が得をする?

明治維新派(薩摩藩や長州藩)にとって絶好のタイミングで、孝明天皇は世を去ることとなります。

1867年1月、孝明天皇は35歳の若さで崩御しました。

この直前のタイミングで薩長同盟が結ばれていますが、まだ秘密同盟の段階で幕府側が勢いを持っています。

その勢いの一つの要因として、孝明天皇が幕府を支持していたことがあったのです。

しかし、孝明天皇がなくなった後の明治天皇を薩長派は掌握し、「討幕の密勅」という形で自分たちが大義名分を持つことを主張します。

すると孝明天皇の死を境に討幕派の動きは加速し、1868年には戊辰戦争をへて新政府が成立、討幕が実現することとなります。

このように孝明天皇の死後急速に討幕が実現したことが、孝明天皇が暗殺を疑われる理由となっています。


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孝明天皇を批判する討幕派

このような孝明天皇の政治姿勢が、討幕を唱える薩摩藩と長州藩の反発を招くこととなります。

薩長両藩は薩英戦争や下関戦争の敗北をへて、幕府を武力で倒し新政権を築くことを目指すようになっていました。

この討幕を目指す薩長両藩にとって、幕府を重視する孝明天皇は目の上のたんこぶだったのです。

大久保利通も孝明天皇には否定的な立場

後の世の昭和2(1927)年に刊行された『大久保利通文書 第一』には、当時討幕派が孝明天皇をどのように見ていたのかを示す史料が収められています。

この本には、大久保利通が慶応元年9月23日(1865年11月12日)に西郷隆盛へ出した書簡が収録されています。

この書簡の中で大久保は、意に沿わない孝明天皇の詔勅を「非義の勅命」と呼び、そのような詔勅は従うべきものでないと述べています。

当時から、孝明天皇は暗殺が疑われていた

イギリスの外交官であるアーネスト・サトウは、回想録『一外交官の見た明治維新』の中で孝明天皇の死に触れています。

ここでサトウは、孝明天皇が崩御した直後には暗殺の噂を聞かなかったものの、数年後に「消息に通じた一日本人」から、孝明天皇が毒殺されたという話を聞いたと記しています。

薩長が新政権を樹立したため、太平洋戦争の敗戦までは孝明天皇の暗殺が表立って議論されることはありませんでした。

しかし様々な記録から、明治期より暗殺の噂が流れていたことがわかります。


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実行犯は伊藤博文か、それとも岩倉具視か?

結局、孝明天皇を暗殺した犯人って誰なの?

暗殺説そのものが確定したわけではまったくないけど、一応疑いが深いのは伊藤博文と岩倉具視といわれてるね。

 

このように孝明天皇が亡くなると討幕派にとっては都合が良いため、早い段階から討幕派による暗殺が疑われてきました。

そして暗殺の実行犯として名前が挙がるのが、伊藤博文と岩倉具視です。

ここではなぜ彼らが疑われるのか、伊藤と岩倉が疑われる理由に迫ります。

①伊藤博文が疑われる理由

初代総理大臣として有名な伊藤博文ですが、若かりし頃の彼は焼き討ちや暗殺の実行役を担う、鉄砲玉のような存在でした。

例えば1863年1月にイギリス公使館焼き討ち事件で放火の実行役を務めただけでなく、同年2月には国学者の塙忠宝を襲撃し、塙を斬り殺してすらいます。

このように伊藤は暗殺の前科があるため、孝明天皇の死についても関与が疑われることとなります。

安重根も伊藤が暗殺したと考えていた

伊藤が孝明天皇を暗殺したという噂は、国境を越え韓国でも広がっていました。

1909年10月、伊藤はハルビン駅で韓国の独立運動家安重根に暗殺されてしまいます。

その後裁判の中で、安重根は伊藤殺害の動機として15の理由を供述しました。

そこで安は伊藤が日本にとっても大逆賊であると主張、その理由として「現日本皇帝の御父君(孝明天皇のこと)」を伊藤が殺害したことを挙げています。

ちなみに安は、この事実は「みな韓国民が知っております」とも供述しています。

真偽はさておき、孝明天皇の暗殺疑惑が海外にも広まっていたことをうかがわせる出来事です。

②岩倉具視が疑われる理由

このように伊藤暗殺説は韓国にまで広まっていましたが、伊藤暗殺説は推測に頼りがちで、歴史学においては陰謀論の域を出ていません。

一方で岩倉の関与については、歴史学の見地からも疑惑が投げかけられています。

戦後最初に学術的な観点から岩倉による暗殺を主張したのが、歴史学者の禰津正志です。

禰津は1954年に「孝明天皇は病死か毒殺か」を発表したのを皮切りに、様々な論文や書籍で孝明天皇の毒殺説を主張しています。

実際、岩倉具視が毒殺したという証言も

禰津は1976年に刊行した『天皇家の歴史』において、岩倉が孝明天皇を毒殺した根拠として佐伯理一郎の談話を取り上げています。

ここで禰津は、佐伯が京都の霊鑑寺の尼僧から「岩倉具視が女官に出ている姪をして、天皇に一服毒を盛らした」という証言を得たことを紹介しています。

このように信ぴょう性はとにかくとして、岩倉については暗殺に関与したという証言が確認されています。


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孝明天皇暗殺説への反論

それじゃあ孝明天皇は暗殺ってことで決まり?

いや、「暗殺なんてなかった」っていう意見が実は多数派

 

ここまで見てきたように、戦後になってから暗殺説を唱える人は増えました。

しかし暗殺説に対しては反論もなされており、しかもその反論によって孝明天皇暗殺説は大きく揺らぐこととなります。

では、暗殺を否定する立場からはどのような主張がされたのでしょうか?

孝明天皇の死因は天然痘?

1989年、歴史学者の原口清が「孝明天皇の死因について」という論文を発表しました。

原口は同論文において、史料を精査して毒殺説の根拠を崩し、孝明天皇の死因は紫斑性痘瘡(天然痘)であると断定しています。

実は孝明天皇は、死の直前に天然痘に罹っていました。

従来の毒殺説は医師たちが発表した「御容体書」の内容を根拠に、孝明天皇は天然痘からは回復したものの、その後毒によって容体が急変したと主張していました。

しかし原口は「御容体書」の内容は表向きのもので、医師たちは典侍の中山慶子には「一両日甚御大事」、つまり実際には天然痘の病状は悪化し続けており、近日中に孝明天皇が崩御すると伝えていたことを明らかにしたのです。


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残り続ける暗殺疑惑

原口論文が発表された結果、現在の歴史学では毒殺説は下火となっています。

ただし毒殺説が消滅したわけではなく、毒殺説を採る石井孝が原口に反論し、両者の間で論争が生じています。

そして論争は決着がつかないまま終了し、毒殺説は現在でも完全に否定されきっていない状態です。

また2011年に刊行された『幕末維新史の定説を斬る』など、近年でも毒殺説を取り上げる書籍は刊行され続けており、暗殺疑惑はくすぶり続けています。

まとめ

今回は、明治時代からささやかれ続けている「孝明天皇暗殺説」について紹介させていただきました。

孝明天皇は、討幕派(明治新政府)にとって都合の良い時期に崩御したため暗殺が疑われた人物です。

歴史学の見地では暗殺説は下火になったものの、今なお様々な人が暗殺説を唱え続けていますから、今後新たな発見があるかもしれませんね。


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