徳川家康の次男:結城秀康の子孫ってどうなったの?
徳川政権下では「制外の家」として重要視され、越前福井藩50万石を代々相続している。
ただし徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)とかと比べるとちょっと軽い扱い。
徳川家康の子供といえば2代将軍の秀忠…だけでなく、結城家に養子に出された秀康がいます(結城秀康)
武勇に優れた素質を示した結城秀康ですが、やがて33歳という若さでこの世を去ります。
しかし、彼が藩祖となった越前北ノ庄藩は「制外の家」として重要視され、幕末には「四賢侯」と呼ばれた松平春嶽を出しています。
今回は、結城秀康の子孫や福井藩の歴史についてくわしく見ていきましょう。
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結城秀康の子孫のその後
結城秀康の子孫は、日本各地に分かれていくつもの藩の藩祖となっています。
挙げてみると津山、福井、松江、前橋、明石藩があり、さらにその支藩に分かれています。
まずは結城秀康の子孫が、これらの藩に分かれた経緯を見ていきましょう。
結城秀康の子孫が治めた藩は?
結城秀康が養子に入った結城氏は平安時代から続く名家で、彼の子孫は代々この結城家を引き継いでいくことになります。
わずか33歳でこの世を去った結城秀康ですが、彼は生前に越前北ノ庄藩50万石を領地として与えられ、男子5人、女子1人の子供を残しています。
結城秀康の子孫がたどった行跡を簡単に一覧にすると以下のようになります。
- 忠直:大坂夏の陣で真田幸村を討ち取るなどの武功を挙げる。その後、越前北ノ庄藩を継ぐが、乱行が目立ち配流されることに
- 忠昌:兄忠直が配流されたため越前北ノ庄藩を継ぐ
- 直政:出雲国松江藩の初代藩主となる
- 直基:姫路藩への国替えの途中で死去。なお、結城家の祭祀を継いだのはこの人
- 直良:越前大野藩の初代藩主となる
改易されてしまった分家もたくさんありますが、結城秀康の血を引く結城家は他にも書ききれない程たくさんの藩主を生んでいます。
徳川家康の次男という血と、由緒正しい結城家の相続者という立場から、徳川政権下では重きをなすことになるのです。
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結城秀康と徳川御三家との関係は?
徳川家の中での名家といえば、まっさきに思い浮かぶのが徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)ですよね。
結城秀康の結城家(=越前松平家)と、この徳川御三家の関係や序列はどうなっていたのでしょうか。
結城秀康の越前松平家は、御三家の序列とは別の「制外の家」とされました。
「制外の家」というとなんだか「別格」のようで偉いようですが、必ずしもそうではありません。
徳川御三家が「徳川本家に子がないときには将軍家を継ぐ」という重要な役割を与えられているのに対して、越前松平家はそのような扱いはされていないからです(簡単に言うと「永久に家臣の家」ということです)
このあたりは結城秀康が御三家の祖の3人と違って、父である家康にあまり可愛がられなかったということも影響しているのかもしれません。
※家康は、御三家の祖の3人(義直・頼宣・頼房)を溺愛し、将軍家につぐ価格としたほか、義直には名古屋城をわざわざ新設して与えるなどしています。
越前福井藩は幕末に四賢候・松平春嶽を輩出
結城秀康の子孫が代々引き継いだ越前北ノ庄藩は、後に越前福井藩と呼ばれるようになります。
越前福井藩といえば…。
そう、幕末の四賢候の1人、松平春嶽が出た藩です
残念ながら春嶽の父は御三家である田安家ですから、松平春嶽は「結城秀康の子孫」というには微妙なのですが、彼が治めた福井藩は結城秀康の一族が代々引き継いできた土地ですね。
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松平春嶽の功績
越前福井藩第16代当主の松平春嶽(慶永)は幕末に坂本竜馬を支援したことでも知られています。
福井藩の中では、中根雪江・由利公正・橋本左内などの補佐を受け洋学所を設置し、軍政改革などの藩政改革を行います。
ペリー来航後は開国派になり、幕府の政事総裁職などの重要な役職にも就任しています。
明治維新後は、明治政府でも役職につきますが明治3年に辞職しています。
春嶽は「明治」の元号を命名した人物でもあります。
他にも西洋のリンゴを初めて日本に導入したと言われています。
まとめ
結城秀康の子孫は越前福井藩その他でたくさんの藩の藩祖となり、御三家と比べると一段落とされた存在とされながらも「将軍の兄の家」という別格の扱いをされることになります。
結城秀康の血はたくさんの藩主を生み、明治維新まで続いたのでした。
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