犬養毅が暗殺直前に「話せばわかる」と言って話そうとした内容ってどんなこと?
自身が疑われていた中国からのわいろについての釈明をしようとしたらしい。
ちなみに、犬養毅は演説と説得の名手といわれていた。
戦前の政党政治の「黄金時代」を築いた犬養毅は、海軍の青年将校によるクーデター(五・一五事件)により暗殺されてしまいました。
暗殺の直前、犬養毅は青年将校に向かって「話せばわかる」と語りかけたとわれています。
結果として青年将校は「問答無用」と射殺してしまうのですが、犬養毅は彼らに何を話したかったのでしょうか?
今回は、犬養毅の生前の言動や五・一五事件の事件調書の内容から、事件の実像にせまります。
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犬養毅「話せばわかる」で話そうとした内容
犬養毅は、中国の有力者である張学良との関係を説明しようとしたという説があります。
(犬養毅の孫の犬養道子さんの説)
張学良は当時満州で力を持っていた中国人で、日本政府とも強いかかわりがあった人物です。
当時、青年将校達の間では「犬養毅が中国の張学良から賄賂を受け取っている」という批判がされており、この点について犬養毅は釈明しようとしたというのです。
犬養道子によると、犬養毅は明治時代から孫文や蔣介石など、中国の人々と交流があったのは事実のようです。
張学良は、関東軍に押収された父作霖の私財返還を依頼し、そのための活動費として犬養毅に資金を渡していたといいます。
犬養道子は、犬養毅はこれを青年将校たちが賄賂と誤解したと考えて、その点について説明しようとしたのではないかと述べています。
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五・一五事件の状況
1932年5月15日、海軍の青年将校を中心とする一団が首相官邸に乱入します。
この計画を首謀した人物は古賀清志海軍中尉で、彼らは当時の政治体制に不満を抱き、「昭和維新」の実現を目指していました。
昭和維新というのは当時の若手軍人が好んだ言葉で、天皇自らが実権を握って政治を行う体制をいいます(具体的な内容にはとぼしかったといわれます)
彼らは昭和維新実現のため、東京を混乱させて戒厳令を出させた後に軍主導の内閣を設立して国家改造を行うと考えていたのです。
この計画の下、彼らは首相官邸をはじめとして内大臣官邸や政友会本部、変電所などを襲撃することとなります。
結果的にいずれの襲撃も被害は限定的で、彼らの目指す昭和維新の実現は失敗に終わりました。
食堂で発見された犬養毅
首相官邸襲撃の様子は、のちに開かれた裁判の公判記録からうかがうことができます。
時事新報社の刊行した『五・一五事件陸海軍大公判記』によると、犬養毅を最初に発見したのは三上卓海軍中尉でした。
三上は食堂で犬養毅を見つけるとすぐに拳銃を撃とうとしましたが、弾丸が装てんされていなかったため撃つことができませんでした。
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「話せばわかる」と別の部屋へ移動
当時の裁判記録によると、犬養毅は三上中尉に対して次のように語りかけたといいます。
すると、首相は両手をあげ制止するように、「マアー待て、話をすれば分るだろう」と言い、自ら私の方に近よって来た。
その途中「話をすれば分かる」と1、2回言い「あっちへ行こう」と室外に出ようとした。
このような犬養毅の行動を三上も「悠々たる態度」と感じたと証言しています。
また、その口調も「私どもに一種の親しみを覚えさせるような言動」であったといいます。
「問答無用」と襲いかかった青年将校
別部屋に到着した犬養毅は、青年将校たちに対して「靴位脱いだらどうじゃ」と語りかけます。
しかし、これに対して三上は「靴の心配は後でもよろしいではないか」と返し、「この際何か言い残すことはないか」と犬養毅にたずねます。
この部分、裁判記録では以下のようなやり取りがあったと記録されています。
首相はうなずききながらやや身体を前方に乗り出し、両手をテーブルに置いたまま何事かを語り出そうとした。
その瞬間、山岸は「問答無用撃て」と叫び、その言葉が終るや否や飛込んできた黒岩が山岸と村山の間から拳銃を発射した。
この直後に青年将校たちは首相官邸から逃走します。
犬養毅もしばらくは意識があったものの、次第に衰弱してその日のうちに亡くなってしまいました。
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演説の名手といわれた犬養毅
当時から犬養毅は「演説の名手」という評判が高かった人物です。
犬養毅を殺すつもりでいた三上中尉も思わず「私どもに一種の親しみを覚えさせるよう」と感じてしまうくらい、犬養毅の語り口は人々を魅了するものだったのです。
犬養毅の演説は肉声が保存されており、現在でも聴くことができます。
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犬養毅の肉声から伝わるもの
上の肉声は昭和7(1932)年に犬養毅が行った演説です。
演説の題目は「新内閣の責務」で、この中で犬養毅は自分たちの施策方針について論じています。
この演説の時点ですでに犬養毅は76歳です。
しかし、その声は明瞭でハッキリとしているだけでなく、内容も目下の課題を「応急の問題」と「根本の問題」に分類して聞き手に分かりやすいように論じています。
ここで犬養毅は「応急の課題」として満州事変と昭和恐慌の解決を、「根本の問題」として中国との関係確立と行財政の立て直しを主張しています。
特に行財政の立て直しについては、
「(明治維新後の改革から)60年間続いて惰力に惰力で重なったというこの弊害を叩き破って、新たな仕事を始めるというのは少なくとも4、5年はどうしてもかかる」
と述べています。
犬養毅の言葉は明晰で、内容も相まってとても江戸時代生まれの人間の演説とは思えないほどです。
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犬養毅への同時代人からの高い評価
犬養毅は1890年の第一回総選挙で当選して以来、昭和期まで政党政治を主導した人物です。
犬養毅はその政治家人生の中で繰り返し演説を行い、当時の言論人からも高い評価を受けています。
その演説は東京朝日新聞の中野正剛記者から「木堂(犬養毅のこと)が演説は霜夜に松籟を聞く」と評されるほどでした。
霜夜とは霜の降りる寒い夜のこと、松籟は松に吹く風の音のことです。
つまり犬養毅の演説は、寒い夜に聴く松風の様にしみじみと心に入ってくる演説だったのでしょうね。
まとめ
犬養毅が銃をつきつけられながらも、青年将校たちを言論で説得しようとしたのは間違いありません。
それに対して軍人たちは「問答無用」と拳銃を撃ち、彼を殺してしまいます。
ひょっとすると、「演説の名手」と言われた犬養毅の話を聞いてしまうと、暗殺の決心がにぶってしまうという危惧があったのかもしれませんね。
犬養毅の暗殺によって議会政治は実質的な終焉を迎え、日本は軍部の独走のもと昭和の戦争へと突入していくことになるのです。
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