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大隈重信と福沢諭吉はライバル?大学設立や紙幣肖像への採用について

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慶応大学を作った福沢諭吉と、早稲田大学を作った大隈重信ってどういう関係だったの?

出身県、年齢ともに近いライバル関係。

 

大隈重信、福沢諭吉の2人はいずれも明治時代を代表する人物です。

彼らの創設した2つの大学(早稲田と慶応)は「早慶」と呼ばれて、何かと比較されることも多いですよね

では、創立者である大隈重信と福沢諭吉の関係はどんな感じだったのでしょうか?

実は2人は出身地も近く、直接面識があって意識し合う間柄だったんです。

今回は大隈重信と福沢諭吉の関係について考察します。

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大隈重信と福沢諭吉

(大隈重信と福沢諭吉はライバル関係?)

大隈重信と福沢諭吉はどちらも九州出身で、年齢もほぼ同じです(福沢諭吉の方が3つほど年上ですが)

性格的には正反対のようで、彼らの残している言葉からは「似ている部分」があったこともうかがわせます。

以下では大隈重信と福沢諭吉を①生い立ち、②政治との向き合い方、③紙幣の肖像となった経緯、の3つの視点から比較してみましょう。

①生い立ち:裕福な佐賀藩士と中津藩の下級武士

まずは2人の生い立ちからみていきましょう。

現代の感覚でいうと大隈重信は「良いところの子」、福沢諭吉は「苦労人」ということになるでしょうか(いずれも武士階級ですが)

大隈重信の生い立ち

大隈重信は1838年、佐賀藩で砲術長という役職を務める大隈家の長男として生まれます。

大隈家は上級藩士の家柄で、7歳の時から佐賀藩の藩校で学んでいましたが、学校の教育方針に反発するなどして17歳で退学になっています。

かなり豪快で「我が道を行く」性格だったことがうかがえます。

大隈は明治維新を佐賀藩士としていわば「勝ち組」として迎えることになりますが、明治新政府の中では薩摩藩や長州藩の勢力が圧倒的に強く、彼は政治家として生涯にわたって薩長閥と戦うことになります。


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福沢諭吉の生い立ち

福沢諭吉は1935年、豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の子として、大阪の中津藩蔵屋敷で生まれます。

幼いころに父を亡くし、子供のころから家計を助けるため、働きながら勉学に励んでいたという苦労人で苦学生でした。

その後大阪の適塾(緒方洪庵の塾)で蘭学を学び、22歳で塾筆頭となるなど、秀才として知られるようになります。

その後、勝海舟に随行してアメリカにわたり、近代的な思想を学んで帰国。

そして「学問のすすめ」を記して時代を代表する啓蒙思想家として知られることになるのです。

②政治との向き合い方:政治家と啓蒙家

江戸から明治へ時代が移ろうとしている頃。

大隈重信は明治政府の下で、参議や大蔵卿、外務大臣など様々な役職を務めました。

総理大臣も2度務め、自分で政党を作って日本初の政党内閣を組織するなど、政治家としてその能力を発揮します。

一方の福沢諭吉も、長崎で学んだ経験があり、語学も海外事情にも精通していました。

しかし、福沢諭吉は大隈重信のように明治政府に加わることはありませんでした。

福沢諭吉は、政治家としてではなく、塾を経営して若者たちを育て、書物を執筆し、多くの人々に知識を広めるという「啓蒙活動」を続けることで日本の改革を進めようとしたのです。


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③紙幣の肖像となった経緯

福沢諭吉は一万円札の肖像になっていますが、大隈重信の肖像は紙幣には使われていません。

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