華族の令嬢ってどんな生活をしていたの?
華やかなイメージがあるけれど、悩みも多かった。
華やかな一時代を生きた華族の令嬢たち。
美しく華やかでありながら、時に奔放に自由を求めた彼女たちのありのままの素顔を知る人は少ないかもしれません。
この記事では、彼女たちの美しくもはかない、ひたすらに自由を求めた人生についてご紹介します。
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華族令嬢=公家や大名家のお姫様たち

(華族令嬢の生活とは?)
華族の令嬢たちは、元々は公家や大名家のお姫様たちでした。
しかし、明治維新後、その制度が変わったと言えども彼女たちの置かれた状況が大きく変わったとは言い難いものだったでしょう。
ですから裕福ではありながらも、その生活は決して平穏なものではなかったはずです。
華族にとっては体面がすべてであり、それを保つための長男長女への拘束は現代の私たちの想像を遥かに超えたものでした。
政略結婚の道具にされる華族の令嬢たち
さらに、家柄に関しても、本来、華族制度は男性のみの世襲制となっていました。
女性に世襲する権利はなかったため、政略結婚などに使われる令嬢たちが大勢いたことは容易に想像できます。
また明治や大正時代の女性達の権利意識は希薄だったため、家庭以外でも自由を謳歌できる状況にはなかったのです。
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華族令嬢の生活
とはいえ、明治18年(1885年)には皇族や華族のための令嬢たちが学ぶ学校が創設されたりと、女性としての権利と尊厳は着々と築かれていきます。
この皇族と華族のために創設された女学校はのちに学習院女学部となります。
この当時学習院女学部にいたアメリカ人女性講師は、皇族から来た旧華族よりも大名家や士族から華族となった新華族の令嬢たちの礼儀正しさと、学業への意欲について賞賛の言葉を残しています。
試験を受け、それを乗り越えて入学を許される新華族の令嬢達と比べ、旧華族の令嬢たちは無試験で入学することができました。
武家社会で育ったあんみつ姫たち
武家社会の中で育てられた新華族の令嬢たちは、まさにあんみつ姫のような冒険心や意欲を兼ね備えていたのです。
しかし、厳しい教育はまさに江戸時代から連綿と続く、武家社会の名残だったといえるでしょう。
食事の食べ方の細かさ、感情を出してはいけないこと、口をあけて笑うことさえ彼女たちは禁じられました。
学習院女学部での教育も含め茶道や華道、和楽器など、令嬢たちは様々なことを学んだようですが、すべてはただの教養のためのものであって、それを極めることは許されていませんでした。
最終的に彼女たちに残された将来の道は、親の決めた相手のところへ嫁ぐこと以外にはなかったのです。
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華族令嬢たちの人生の選択肢
しかし、この厳しい教育や、男尊女卑、家系の体面を保つだけの風潮が彼女たちの心に火をつけます。
学習院女学部を卒業した令嬢たちはすぐに結婚させられ、良妻賢母であることを強いられます。
自分の教養を身につけるためだけでなく、本気で学びたいと思っても親にやめさせられてしまう。
これに耐えられなかった令嬢たちも多くいたようです。
自由を求めた華族令嬢もいた
学習院女学部を中退して平民と結婚した令嬢や、難民の救済に人生をかけた令嬢、渡米して、アメリカ社交界で大いに活躍した令嬢。
自由恋愛を謳歌し、出奔した令嬢など一人ひとりが実に様々な人生を送っています。
親はただの教養として身につけさせるつもりだった教育が、彼女たちの閉じ込められた生活を刺激し、心をはぐくみ、多くの選択を与えたのは言うまでもないことでしょう。
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華族令嬢たちが起こしたスキャンダル
世界をまたにかけ活躍した華族の令嬢がいる一方で、自身の欲求と向き合いながらも、事件やスキャンダルを起こしてしまった華族令嬢たちもいます。
明治、大正、昭和初期の時代における華族の令嬢たちは芸能人のように注目され、スクープされたため、皇族から出た華族令嬢と言えども、ある程度のスキャンダルを避けることはできなかったようです。
ここからは華族を含め、華族の令嬢たちが起こした事件とスキャンダルについてご紹介します。
殺人事件を起こした華族令嬢:宮坂小路久美子
これは比較的最近の事件ですが、殺人を起こした令嬢がいました。
昭和48年(1973)12月の深夜、華族令嬢「宮坂小路久美子」の住むマンションで銃殺事件が発生。
この華族令嬢は2店舗の雀荘を営む経営者でしたが、46歳の年齢にして離婚歴があり独身で、見た目が美しかったこともあり、17歳も年下の恋人がいました。
しかしこの年下の恋人には当時縁談が持ち上がっており、華族令嬢の彼女とは別れたいと願っていたのです。
そこで会社の先輩を伴って彼女ところへ行き、別れを迫ります。
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あまりに理不尽な言葉を、恋人の先輩という知らぬ男からたたきつけられた令嬢は、持っていた散弾銃で恋人の先輩社員を銃殺。
自身もガス自殺を図りますが、一命をとりとめます。
この華族令嬢「宮坂小路久美子」は、昭和2年に子爵家の令嬢として生まれました。
戦後の華族制度への圧力や、華族の廃止を受け過酷な少女時代を過ごしましたが、昭和24年には大手企業の創業者の長男と結婚します。
しかし、姑と合わなかったこと、そして、夫の長期不在中に違う男と不倫を重ねたことなどもあり、その後離婚します。
この結婚生活はたった2年しか続きませんでした。
それからの彼女は、水商売をしたり、高級雀荘を経営したりと落ち着かない生活を繰り返します。
最終的に17歳年下の男と半同棲の生活を続け、その先輩社員を銃殺することになるのです。
華族制度が廃止され何十年もたった時に起きたこの事件ですが、世間が「華族令嬢が起こした殺人」として注目したのは言うまでもありません。
明治大正とは異なり、昭和の戦後の過渡期、最後の華族として奔放に育てられたのか、この華族令嬢は、家族を築き上げるために自身の欲求を抑える辛抱強さに欠けていたのかもしれません。
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不倫に走った華族令嬢たち:柳原白蓮
華族がからむもっとも性的なスキャンダルが「不良華族事件」でしょう。
昭和8年(1933)に露見した、この事件の主犯格の吉井徳子は伯爵家の柳原義光の娘でした。
この徳子の叔母が、かの有名な白蓮事件の柳原白蓮であり、徳子の父、義光の叔母は大正天皇の生母である柳原愛子です。
徳子は22歳で結婚していましたが、夫婦関係は当初より冷え切っており、彼女にとっては他の男と関係を持つのが普通になっていました。
この時、徳子と愛人関係にあった男がダンスホールの教師です。
この男性教師はさまざまな女性と関係を持ち、その女性達を斡旋紹介していたのが徳子だったのです。
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徳子が女性達を紹介した動機は、男性教師との関係を繋ぎとめるためだったと言われています。
今では廃止されましたが、当時は姦通罪があり、この教師は姦通罪によって検挙されたことから、徳子の犯行が露見しました。
教師と関係を持った女性達の多くが、夫を持つ華族令嬢たちであり、そしてその令嬢たちを紹介したのもまた、伯爵家出身の華族令嬢、徳子だったのです。
白蓮事件で世間を騒がせた柳原家出身の華族令嬢が、またスキャンダルを起こしたのは更なる注目を浴びたに違いありません。
この事件では、徳子以外にも、男性教師と関係もった華族令嬢に処分が下りました。
徳子とその夫は宮内省より隠居を迫られ、華族としての礼遇を停止、また除族扱いとなった華族令嬢もいました。
また、宮内省からの処分はなかったものの、不倫がばれて夫との別居を避けられなかった華族令嬢もいたのです。
まとめ
華族の中で厳しく教育され、自分の要求を通すことさえ叶わなかった華族令嬢たちの激しい人生を理解するとき、私たちには計り知れない息苦しさがあるのかもしれません。
彼女たちの奔放な生き方こそが、真綿で首を絞められるような華族の中にいたことを象徴しているように感じられはしないでしょうか。
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