3代将軍徳川家光には弟がいたの?

徳川忠長という非常に仲の悪い弟がいた。
最終的に家光は弟を切腹させている

 

徳川家光といえば「生まれながらの将軍」として強権的に諸大名を統率した将軍というイメージがありますよね。

一方で、少年時代の彼は健康に恵まれず、肉親との関係を築くのに苦労した人でもありました。

特に実の弟徳川忠長とは深い確執があり、最終的には切腹させるところまでいっているのです。

今回は、徳川家光と徳川忠長の関係をうかがわせるエピソードを紹介します。


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徳川家光と弟の徳川忠長の不仲の理由

徳川家光と弟の徳川忠長
(徳川家光と弟の徳川忠長の関係は?)

徳川家光と弟徳川忠長の不仲は幼少期の後継者問題から始まっています。

家光の父親は2代将軍の徳川秀忠(初代は家康)ですが、家光の幼少期の様子から見ていきましょう。

徳川家光と徳川忠長の後継者争いが生まれた理由

徳川家光は2代目将軍徳川秀忠の次男として生まれます。

長男は早くに亡くなってしまったため、生まれたときから3代目の将軍跡継ぎとして育てられました。

※正当な世継ぎとして象徴的なのは大御所である祖父徳川家康と同じ幼名である「竹千代」を与えられたところからもわかります。

次男の徳川忠長を偏愛する両親…

ところが次に生まれた秀忠の三男徳川忠長(幼名は国千代)の方が見た目が愛らしく才能を感じさせる子供だったのでした。

秀忠とその妻はこの国千代(のちの徳川忠長)を溺愛します。

あまり容姿が綺麗ではなく生まれつき吃音(きつおん:話すときに言葉につまってしまいやすい症状)の障害があった徳川家光は、兄であり世継ぎであるはずなのに現将軍の父秀忠からはうとまれてしまいます。

親とはいえ好き嫌いはあるでしょ…と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、事態は後継者を忠長に変更しようとするという事態にまで発展します。

将軍の後継者が誰になるか?はまわりの人間にとっても大問題ですから、この問題は初代将軍の家康も介入する状況に発展していきます。


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春日局の助けで将軍になれた徳川家光

ここで登場するのが家光の乳母(赤ん坊の時に母親に代わって乳を与える女性)でもあった春日局(かすがのつぼね)です。

まわりからうとまれがちだった家光を、彼女は愛情をもって支援します。

家光からすると、幼少期の身の回りの人間の中では「唯一の味方」のような存在であったことでしょう。

家康を味方につけた春日局と家光

春日局は乳母という立場ですが、彼女自身は何の権力もあるわけではありません。

そのため、その他時点での将軍である秀忠を制することができる最大の存在、つまり大御所の徳川家康(秀忠の父、家光や忠長の祖父)に直訴したのです。

いったん後継者と定めた子を変更するなんて、お家騒動のもとになる、という大義名分を訴えたわけです。

話を聞いた家康は、すべての人がはっきりと分かるように徳川家光こそが3代目の将軍になるのだと態度で示すことを要求します。

この後継者問題に終止符を打つように秀忠に指示を出したというわけですね。

秀忠は不満に思ったでしょうが大御所家康には絶対に逆らえませんので、しぶしぶでもこれを受け入れざるを得なかったというわけです。

「長幼の序」を明確にした家康

一説によりと家康は徳川家光と徳川忠長の兄弟を部屋に呼び、家光はかたわらに招き抱きかかえてお菓子を与えたが、忠長の方には犬に餌をやるようにお菓子を放り投げて与えたと伝えられています。

誰の目にも次の将軍は家光で間違いないと暗に理解させるという方法をとったということですね。

家康が態度をあきらかにするようになってからは「徳川家の後継者は家光」という形になりました。


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徳川家光が将軍となった後の徳川忠長

家光が将軍になった後、弟の忠長はどうなったの?

当初は「大大名」として優遇されていたけど、不満たらたらで行動がだんだんおかしくなっていきます。
最終的には家光に切腹させられてしまった。

 

すったもんだの末、無事に将軍となった徳川家光は「生まれながらの将軍」として輝かしい経歴を歩むことになります。

一方、弟の徳川忠長は後継者争いに敗れたことが心理的に影響を与えたのか、次第に問題行動を繰り返すようになっていくのです。

将軍として様々な制度を確立していく徳川家光

晴れて将軍となった徳川家光は優秀な家臣にも恵まれ、「鎖国制度」「参勤交代制度」など歴史の授業では誰でも一度は聞いたことがある有名な江戸幕府の基礎を築いていくのです。

家康から無条件に擁護されたことで自信がついたのか少々破天荒なところがありながらも将軍として立派に職務を果たしていったと言えますね。


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「生まれながらの将軍」宣言

将軍になった徳川家光のその自信のほどは各藩の大名を集めた眼前で言い放つ宣言にもよく表れています。

「余は生まれながらの将軍である。文句のあるやつはいつでも相手になってやる。」

というような言葉で、はっきりと徳川将軍家が最上位であり生まれながらの将軍である自分には誰も逆らえないのだと示したわけです。

不満を抱えた忠長は問題行動を始める

それでは後継者争いに敗れた徳川忠長はどうなったかと言うと、高位の役職を与えられて駿河国と遠江国の一部を併せた55万石を与えられるという好待遇となったのでした。

これは例え後継者を争った相手だとしても実の弟ですから家光が恩情をかけたということともいえます。

しかし、徳川忠長の不満は解消されませんでした。

もしかしたら将軍になれていたのに…という不満

しかし、それでも忠長は内心「もしかしたら将軍になれていたのに」という思いがあったのでしょう。

不満は彼の行動となって現れ始め、将軍の弟という立場をわきまえない行動が表面化してきます。

酒に溺れ家臣を簡単に手討ちにしたり、何の罪もない農民を殺したり…とやりたい放題。

まるで不満のはけ口を探しているかのような忠長の行動に、次第に家光やその周囲の家臣たちは問題視していくようになるのです。

父秀忠も呆れさせる徳川忠長の要求

あまりにも軽率な忠長は最大の味方である父秀忠をも呆れさせてしまい、結果としてうとまれていくようになるのです。

そのきっかけになったのは「駿河・遠江の55万石では足りない、100万石の知行をくれるか大阪城の城主にして欲しい」という忠長の要求です。

これにはあれだけ擁護していた父秀忠もあきれかえるばかりで、愛想を尽かしたと伝えられています。


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ついに徳川家光も徳川忠長をかばいきれなくなる

将軍の弟としてあり得ない忠長の行状や、それに前政権である豊臣色がいまだに強く残る大阪城を欲しがったという事実は、徳川家の人間としては見過ごせないことでした。

さらに悪いことに、江戸幕府内では忠長が後継者争いの恨みから謀反に走るのではないかと危惧する声が上がり始めます。

家光はそれでも血を分けた弟の忠長をかばうようにとりなしていましたが、事態は2代将軍秀忠の死の後さらにエスカレートしていきます。

忠長は、父秀忠の死に際して勝手に寺院を建立したことや外様大名の改易に関して幕府に対する不満を口にするといった行動をとります。

こうした様々な問題が山積みとなり、ついには家光もかばいきれなくなってしまいます。

寛永10年12月6日(1634年1月5日)に、幕府の命により高崎の大信寺において徳川忠長は自刃させられてしまうのです。

幼少期から続いた兄弟の確執は最悪の形で幕を引いたのでした。

まとめ

親族が骨肉の争いを行った戦国時代の荒々しい風潮が残る時代とはいえ、徳川家光と徳川忠長の不仲は悲しいエピソードだと思います。

ただ、最後まで忠長をかばおうとした家光はやはり将軍の器があったのかもしれません。

彼はまだまだ不安定な要素の大きかった徳川幕府初期において、徳川家の権力を確立することに成功していくのです。


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