大正デモクラシーってわかりやすくいうとどういうこと?
もっと民主主義な世の中にしようぜっていう、大正時代の雰囲気のこと。
この時期「国会前デモ」が成功して政権が倒れたりしてる。
太平洋戦争前の日本には自由のない暗いイメージがある…という方もひょっとしたら多いかもしれません。
しかし、大正時代から昭和の初期にかけて「大正デモクラシー」と呼ばれる、かなり自由で明るさのある時代があったことをご存知でしょうか。
今回は、大正デモクラシーとはどういう時代だったのかについて具体的に見ていきましょう。
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大正デモクラシーとはわかりやすくいうと何?
デモクラシーというのは民主主義のことで、簡単にいうと「国民の声を政治に反映するようにしろ」という主張のことです。
日本では大正時代にこの民主主義の考え方がとても強くなったため、その当時の状況や雰囲気のことをさして「大正デモクラシー」ということがあります。
実際、この時期には国会議事堂前で国民がデモを起こし、時の政権を倒すというできごとなども起こります。
大正デモクラシーはなぜ起こった?
理由の第一としては、この時期には知識層の活動が活発になったことがあります。
また、特に第一次世界大戦後の不景気による生活苦が、国民を生活改善の運動に駆り立てる動機となったこともあげられるでしょう。
日本は第一次大戦は景気が良かったのですが、戦争が終わった後には不況に襲われ、しかも関東大震災という大災害も生じて大変な不況にみまわれていたのです。
こうした国民の不満が当時の政治と政治家に対して向けられた結果、「もっと国民のためを考えて政治をしろ」という主張になり、大正デモクラシーの大きなうねりとなっていったのでした。
大正デモクラシーの理論的支柱:民本主義とは?
そもそも大正デモクラシーは、吉野作造という政治家がとなえた「民本主義(民主主義ではありません)」という考え方を根拠にしています。
民本主義とは、簡単に言うと「主権は天皇にあるのだけれど、政治は国民のためにあるべきだ」という考え方のことです。
より具体的には「天皇主権は維持するが、実際の政治は選挙で選ばれた国民の代表が国会でやるべきだ」という考え方を言います。
当時の国会は民主主義ではなかったの?
当時、すでに国会(帝国議会)は開設されています。
しかし、議院内閣制(国会議員の中から総理大臣を選ぶシステム)は採用されていませんから、内閣総理大臣は必ずしも選挙で選ばれた人の中から指名されるとは限られなかったのです。
実際、軍人や天皇の側近が内閣総理大臣になるケースの方が多く、この点で国民は強い不満を持っていました。
とはいっても、天皇が国家の中心であることについては大多数の国民が同意していましたから、民本主義(「天皇主権×国民代表による政治」)という考え方が主流になったというわけです。
民本主義の考え方に基づき、大正時代には普通選挙運動、政党内閣に基づく護憲政治、さらには女性解放運動や労働者、小作階級の待遇改善の運動などの大きなうねりとなり社会全体を動かしていきます。
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大正デモクラシーと護憲運動
大正デモクラシーと関連して出てくる「護憲運動」って何?
薩長閥出身とか、軍隊出身とかではなく、選挙で選ばれた国民に政治をさせろっていう運動のこと。
大正デモクラシーの時代を象徴する政治的なできごとが「護憲運動(ごけんうんどう)」です。
護憲運動というのは、簡単に言うと「憲法の精神にのっとった政治をしろ」という主張のことです。
さらに具体的に言うと「出身県とか、軍隊出身だとかいったことではなく、国民から選ばれた人間が政治をできるようにしろ」ということですね。
上でも説明させていただいたように、当時はまだ議院内閣制のシステムは採用されていません。
内閣総理大臣は元老(明治維新に功のあった9人の人たち)が天皇の名のもとに指名していたのです。
ちなみにこの時期の9人の元老というのは以下のような人たちです。
大正時代の9人の元老
①長州出身者
伊藤博文
山形有朋
井上馨
桂太郎
②薩摩出身者
西郷従道
大山巌
黒田清隆
松方正義
③公家出身者
西園寺公望
いずれも長州藩、薩摩藩、公家のどれかに属する人たちで、当時の人から見てまさに「古い世代の代表」の人たちだったのです。
そのうえ、これらの人々は軍隊を握っています。
ピラミッド型の組織である軍隊では上の人間のいうことは絶対ですから、陸軍は長州藩出身者、海軍は薩摩藩出身者というように、出身県によって派閥が作られていたのです。
こうした特権階級の内側にいる人たちはいいですが、特権の外に置かれた大多数の国民は強い不満を持つことになります。
こうした雰囲気のもとで活発になったのが護憲運動という活動なのです。
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護憲運動によって行われた「国会前デモ」
護憲運動の中心となったのは尾崎行雄・犬養毅という2人の政治家です。
「古い薩摩藩、長州藩といった出身県による優遇措置や、軍隊出身者が政治の中心になる状況」を打破することを目指します(「閥族打破」がスローガン)
この運動は、国民はデモ隊を組織して国会前を囲むところまでいきます。
その結果、当時の桂太郎内閣(陸軍出身)は総辞職する事態に追い込まれました(これを大正政変といいます)
ショックを受けた桂太郎はその直後に病死してしまいます。
護憲運動で、桂太郎内閣はなぜ批判された?
桂太郎という人は、長州藩出身者でしかも陸軍閥のリーダーという、「バリバリの特権階級出身」という人でした。
(日露戦争のもとで総理大臣を務めた優秀な人物ではあったのですが)
しかも、総理大臣となる直前には「内務大臣」という立場にありました。
内務大臣というのは天皇のプライベートな生活について補佐をする役割のことで、当時は「天皇のプライベートを補佐する人は、表舞台の政治に出てくるべきではない」という暗黙のルールがあったのです(これを「宮中・府中の別」といいます)
桂太郎には、民本主義の立場を重視する人たちからは批判を受ける材料が山のようにあったというわけです。
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普通選挙につながった「閥族打破」
明治維新以降の政府は、長州藩(山口県)と薩摩藩(鹿児島県)を中心とする勢力が、江戸幕府を倒してできた政権です。
その後、明治時代が終わり、大正時代になってもまだ明治維新に貢献のあったこの2つ藩出身者は、政府や軍隊の中で大きな力を持っていたのです。
(特に陸軍は長州藩出身者を優遇し、海軍は薩摩藩出身者を優遇していました)
このような藩出身者のつながりで政治や軍隊の中枢をコントロールしている状態を「閥族」、それをなくせという運動が「閥族打破」だったのです。
この動きは政党による政治、そして普通選挙を実施すべきであるという運動につながっていくのです。
大正デモクラシーと普通選挙運動
当時の選挙は、一定額以上の納税をしているお金持ちだけが参加することができる「制限選挙」でした。
この「お金による制限」を撤廃し、だれでも選挙に参加できるようにした選挙のことを「普通選挙」と呼びます。
大正デモクラシーのもとでは、この普通選挙を目指す動きも大きなエネルギーとなっていきます。
当時の普通の国民が持っていた不満
運動を支えた背景には第一世界大戦後の急速な不景気で生活が苦しくなった労働者階層、そして農村における土地を持たない農民である小作農の存在がありました。
全国各地で労働運動、小作争議が起き、全国組織もでき上がり、納税額に関係のない普通選挙を実施すべく活動を行います。
また、当時は女性の知識層も増加し、平塚雷鳥という女性運動家も出現し「原始女性は太陽だった…」というように、歴史的な部分から女性の権利を見直すような運動も起こしていきまず。
しかし、女性の選挙権は太平洋戦争終了まで実現されることはありませんでした。
1925年に日本初の普通選挙がなされますが、それは「男子25歳以上」に限定されたものでした。
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大正デモクラシーの時代の社会の様子
政治家はともかく、大正デモクラシーで国民はどんな感じだったの?
タブー視されていた「天皇についての議論」をする人たちなんかも出てきた。
大正デモクラシーは、政治的には国民がより幸福な生活を求め、政治参加の権利を求め運動を起こした時代です。
では、当時の明治時代を経て近代化した日本の社会の様子はどうだったのでしょう。
天皇についてもオープンに議論する社会に
明治時代には天皇の存在意義や政治に及ぼす権力についてはオープンに議論するということはまだタブー視されていました(「神聖にして侵すべからず」という位置づけ)
しかし、大正時代になると、こうした面でも自由に議論がされるようになり、学者の中にはさまざまな学説を発表する人が現れてきます。
特に有名なのが美濃部達吉の天皇機関説です。
天皇機関説というのは、簡単に言うと天皇は日本という国の機関のシステムの一部であるという主張のことをいいます。
天皇機関説の理路的な根拠についてはさまざまな批判がなされますが、ここで重要なのは「天皇についても議論のできる社会」がそこに出現していたということです。
大正デモクラシーと天皇機関説
天皇機関説についてもう少しくわしく見ておきましょう。
「天皇機関説」は憲法学者・美濃部達吉らが主張した学説ですが、そもそもこのような学説が「憲法講話」という出版物が出た事実が大きいです。
美濃部は不敬罪で取り調べを受けますが、起訴猶予となります。
つまり「天皇機関説」で大日本帝国は美濃部を処断できなかったのです。
美濃部は、右翼に襲撃されますが、天皇に対し似たような主張をすれば今も時代でも右翼の襲撃を受ける可能性はゼロではないのですから、それを持ってこの時代の暗部とは言えません。
むしろ「天皇機関説」に対する議論も活発に行われ、国会では美濃部は自分の学説に対する弁明の機会をもらっているのです。
憲法における自由な解釈ができ、その論争が出来たというだけで、むしろ戦後のある時期よりも、自由に憲法を語ることができた時代であったのかもしれません。
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大正デモクラシーと軍隊
大正デモクラシーの時代は、軍隊にいる人にとっては肩身のせまい時代だったといえるでしょう。
大正時代、第一次世界大戦で勝利者の側になったことから、日本は世界の5大国(イギリス、アメリカ、イタリア、フランス、日本)のひとつなっています。
しかし、この時代の世界の風潮は「軍隊はもっと縮小するべきだ」という考え方です。
第一次世界大戦はかつてないほどの戦争犠牲者を出した戦争でしたから、世界的には軍縮をすべきだ、という方向性になっていたのです(実際、数々の軍縮条約が調印されます)
戦前の日本は常に軍人が威張っていたイメージがありますが、大正デモクラシーの時代はむしろ軍人が形見のせまい思いをしていたのですね。
ただし、第1次世界大戦が終わってから10年後には恐慌の時代がやってきます。
政党政治の腐敗や、日本国内の貧困階層の固定化などの問題もあきらかとなって、やがて政治家は国民からの支持を失っていきます。
そうしたタイミングで軍隊が力を持ち直すことになり、数々の軍事クーデターを通じて政治を掌握し行くことになるのです。
大正デモクラシーの影響とその後
大正デモクラシーは日本の民主主義の基本を創りだした非常に貴重な時代であったと言えます。
「閥族打破」、「憲政擁護」のスローガンは一定の成果をだし、政党政治を作り、日本を極めて民主的な状態に近いにします。
しかし、政党政治もやがて問題を抱え腐敗していきます。
近代日本の抱えていた「貧困階層の固定化」、「食えない国民が多い」という問題を解決することができず、その問題の解決を外に求め日本は国際的に孤立し、やがて破滅します。
しかし、大正デモクラシーの時代に生み出された思想、考え方が無かったら日本はもっと悲惨になっていたかもしれません。
太平洋戦争末期に、アメリカ内部で日本との講和を考えている一派は、日本人殲滅を本気で考えていた一派に対し、有用な説得材料をひとつ失うことになったかもしれません。
アメリカが太平洋戦争で日本を打倒した場合、天皇制を維持しても民主義的な国家となる可能性があると考えたのは、大正デモクラシーを中心とする「民主的な日本の原型」がそこにあったからです。
大正デモクラシーは外から見た日本を評価する立場に立ったものに、日本が「民主主義的価値観を持ちえる国民である」と教える多大な貢献をしていたのではないでしょうか。
まとめ
大正時代は、発展の明治時代と、戦前の昭和期に挟まれ印象の薄い時代という方もひょっとしたら多いかもしれません。
しかし、この時代に日本人が大正デモクラシーを経験したことは、その後に民主主義の政治が日本に根付いていく基礎になったといえます。
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