明治天皇には側室がいたの?
5人の側室がいました。
次の代の大正天皇は側室の一人(柳原愛子)の子です。
明治天皇には皇后のほかに、明らかになっている女性で5人の側室がいました。
この記事では、意外に知られていない天皇家の側室制度について解説させていただきます。
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明治天皇の側室は5人?寵愛された女性の一覧

(明治天皇の側室は何人?)
明治天皇の皇后は一条美子(いちじょうはるこ)という女性でした。
しかし、明治天皇と皇后の間には子供が生まれることはありませんでした。
皇后に懐妊の兆候がないことを知った宮中では、着々と側室をむかえる準備がなされていきます。
皇后・一条美子(いちじょうはるこ)

(明治天皇の皇后:一条美子)
一条美子が皇后として立てられたのは明治元年のことです。
皇后・一条春子は1849年嘉永2年に左大臣・一条忠香の三女として生まれます。
その後1867年慶応3年に明治天皇の元で女御という官職に就きます。
この女御という官職は非常に高い身分を持つ女官で、明治天皇の寝所でも仕えていました。
そして1869年明治元年に皇后になります。
皇后に立てられたとき、美子は若干20歳でした。
ところが、皇后には一向に懐妊の兆候が見られません。
もともと病弱ということもあり、その人生の最後まで実子をもうけることはありませんでした。
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明治天皇の側室①:葉室光子(はむろみつこ)
明治天皇は、一度に2名の側室を迎えます(葉室光子と橋本夏子)
側室が皇室に迎え入れられたのは、一条美子が皇后となったわずか3年後の1872年のことです。
当時の皇室が後継者が生まれることを重要視していたことが伝わってきますね。
公家の出身の光子が側室となったのは19歳でした。
翌年1873年の9月には第一皇子として男児を出産しますが、その子は間もなく死亡します。
また光子自身も産後の不良により出産から4日後、そのまま息を引き取り、わずか20年の人生に幕を引いたのです。
明治天皇の側室②:橋本夏子(はしもとなつこ)
橋本夏子が側室として迎え入れられたのも、葉室光子と同じ1872年のことでした。
夏子は公家の出身で、側室になったのは16歳のときでした。
順調に妊娠しましたが、1873年11月に女児を死産。
その翌日、夏子本人も帰らぬ人となりました。
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明治天皇の側室③:柳原愛子(やなぎはらなるこ)

(明治天皇の側室:柳原愛子)
柳原愛子が側室になったのは葉室光子と橋本夏子が相次いで急逝した、1873年でした。
こののち柳原愛子は順調に2男1女を出産します。
しかし、この3人の中で成人できたのは柳原愛子にとって二人目の息子の嘉仁親王だけでした。
この嘉仁親王はのちに大正天皇になっています。
また柳原愛子には、白蓮事件で有名になった柳原白蓮がいます。
白蓮がかわいらしい印象を与える女性であったように、愛子の写真を見ると、幼さが残る可愛い印象を与える女性です。
彼女は息子を大正天皇にするという特権にあずかりましたが、それでも皇后の位につくことはなく、その長い生涯を側室として終えています。
彼女の人徳は宮中でも広く知れ渡っており、皇后にも他の側室や女官たちにも愛されたようです。
それは嫁との関係にまで影響を及ぼし、愛子の息子・大正天皇の嫁である貞明皇后にも、まるで実母であるかのようにしたわれました。
柳原愛子が病気で伏せていたときには、皇后がお見舞いに来て、その手をとって感謝をのべたという逸話が残されています。
彼女は昭和43年に自宅で死去します。
享年84歳でした。
明治天皇の側室④:園祥子(そのさちこ)

(明治天皇の側室:園祥子)
園祥子はわずか13歳で側室になります。
幼くして側室となった彼女は順調に娘を授かり、19歳で初めての出産をします。
しかしその娘もわずか1歳で死去してしまいます。
その後も明治天皇から愛された彼女は出産が続きます。
最終的に2男6女というたくさんの子どもを出産していますが、そのうち二人の息子と一人の娘は幼くして死亡します。
成人するまで生き残った子どもは、5人もいましたが、すべて女の子だったためどの子も皇太子となることはありませんでした。
なお、園祥子の産んだ2番目の娘(昌子)は後の1908年に陸軍少将・竹田宮恒久王と結婚します。
ちなみに、この竹田家の子孫が近年有名になったのが作家の竹田恒泰さんです。
竹田恒泰さんは、今上天皇のはとこの子ということになりますね。
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明治天皇の側室⑤:千種任子(ちぐさことこ)
千種任子もまた側室と迎えられ、2女を出産します。
しかし、この二人の子は幼くして亡くなっています。
この女性に関しては謎のことが多いです。
事実上子どもがなかったことなどもあり、注目されていないのかもしれません。
ただこの千種任子のあまりにも不幸なところは、一人目の娘が死んだ翌々日に二人目の娘が死んだということです。
一人目の娘は2歳まで育ちました。
そして二人目の娘はおよそ8か月という小ささで死んでいるのです。
それがたった3日の間という、続けざまに起こったこの母親の悲しみを想像することは出来ないでしょう。
皇后と側室の関係はどうだった?
側室たちにとって、皇后は「ライバル」という感覚はなかったと思われます。
当時の皇后や側室制度というのは、女官たちの位の一つで、皇后は圧倒的に高い地位ということになります。
皇后は女官の最高位であり、それを頂点として、典侍や権典侍という女性達の地位があったのです。
ですから、側室たちにとって皇后はライバルではなく上司にあたります。
皇后は天皇のそばにいる女性たちを取り仕切る女性たちの上司のような役割をしていました。
そのため、明治天皇が自分の意志で女性を選び、その女性と一緒に過ごすことは許されていなかったようです。
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誰が天皇と夜を過ごすのかは、皇后が選んでいた
今夜、天皇と一緒に過ごす側室を選ぶのは皇后の仕事でした。
これは、一部の女性にのみ天皇の寵愛が注がれるのをふせぐ目的もあったでしょうが、明治天皇の皇后は聡明な方だったようですから、一部の女性だけに負担がかかるのをふせぐ目的もあったでしょう。
また、一人の女性だけを寵愛し続けた場合、その女性に子供ができなかったなら、結局家系は途絶えてしまいます。
これをふせぐために皇后が、その日その日で公平に側室を選んで天皇をかよわせた可能性もあります。
皇后は還暦のお祝いの時に、側室の柳原愛子に女官の代表としてその場を務めさせています。
これはライバル関係などではなかったことの証明となるでしょう。
皇后と側室たちはあくまでも上司と部下のように、そして家族のように天皇に仕え続けたようです。
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明治天皇の側室の子は?
最終的に、明治天皇は5人の息子と10人の娘をもうけました。
しかし、4人の息子と6人の娘は5歳になる前にみんな死んでしまい、無事に成人できたのはたった5人だけだったのです。
さらにいうと、生き残った5人のうち息子はただ1人で、他4人は娘です。
このただ一人残った、息子がのちの大正天皇になります(側室の柳原愛子の子)
明治天皇の子どもたちがあまりにも小さいうちに亡くなった理由や死因は明らかにされていません。
この当時の医療技術が発展していなかったことも原因にはあるでしょうが、明治天皇自身も病弱だったため、それが遺伝したかもしれません。
明治天皇が特別に寵愛したのはどの側室?
明治天皇は柳原愛子、園祥子を特別に寵愛したといわれています。
明治天皇が若いころには、柳原愛子を寵愛し、ある程度の年齢になってからは園祥子を愛したといわれています。
実際に、園祥子は2男6女と8人もの子供を産んでいます。
また園祥子は、権掌侍という地位から権典侍へ、という異例の出世をとげており、このことからも寵愛を受けていたことがうかがえるでしょう。
ちなみに柳原愛子がかわいい印象なのに対し、園祥子はすっきりとした美人という印象があり、明治天皇の好みも年齢と共に変わっていったのかもしれません。
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最後に愛された女性はどの女性?
子どもを産まなかったこともあり、公式な記述には残されていませんが、実は小倉文子(おぐらふみこ)という側室がいました。
小倉文子は明治天皇に最後に寵愛を受けた女性でした。
小倉文子も地位としてはほかの側室たちと同じでしたが、それまでの正式な側室たちがすでに5人いたこともあり、また子供がなかったことから公式には伝えられていません。
まとめ
明治天皇と言えば、日清日露戦争など、強い軍人としてのイメージが強く残る人物です。
しかし、実際には生まれた子供が幼くして死に、愛した女性だけと一緒に居続けることは許されないような、寂しい生活を送っていたのかもしれません。
二人の側室をのぞけば、皇后と側室たちは比較的長生きをしたようですが、明治天皇は60歳ほどで亡くなっていることを考えれば、ストレスの多い人生だったと言えるかもしれません。
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