西郷隆盛の写真がドイツで発見されたって本当?
真偽は確かではないけど、当時の状況からみてつじつまはあっているようなないような…。
西郷隆盛は「写真嫌い」として知られ、今まで彼の写真は一枚も残っていないとされてきました(教科書に出てくる彼の肖像は「絵」です)
そんな中、2018年に西郷が写った写真がドイツで発見されたというニュースが報じられ、大きな反響を呼んでいます(手紙そのものは以前から存在が知られていましたが)
今回はドイツで見つかった西郷隆盛の写真について、その真偽について検証してみましょう。
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西郷隆盛の写真【ドイツで発見されたもの】
まず、そのドイツで見つかった西郷隆盛の写真というのはこちらです。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
↑写真後列の右から2人目が西郷隆盛といわれています。
写真に写っているそれぞれの人物の名前をまとめると以下の通りです。
- 後列の1番右 :山県有朋
- 後列の右から2番目:西郷隆盛
- 後列の右から3番目:大山巌
- 後列の1番左 :乃木希典
- 前列の1番右 :西郷従道
- 前列の右から2番目:ユリウス・ヘルム
- 前列の右から3番目:勝海舟
- 前列の1番左 :川村純義
いずれも明治維新前後~明治初期にかけて大活躍した人物ばかりで、そうそうたるメンバーですね。
この当時の明治政府においては若い世代に属する乃木希典や大山巌が写っているのも印象的です(乃木希典や大山巌はこれよりだいぶ後の日露戦争時の陸軍指揮官です)
個人的には征韓論賛成派だった西郷隆盛と、反対派だった弟の西郷従道がどういう気持ちで一緒に写真に写っているのか…といったことが気になります。
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この時期の西郷隆盛と山県有朋・勝海舟…
また、この時期の西郷隆盛と山県有朋や勝海舟がどんな話をしたのか?というのも興味のあるところです。
勝海舟と西郷隆盛の関係についてはいうまでもなく江戸城無血開城以来の中ですね。
一方で、山県有朋は西郷隆盛に政治的な危機(山城屋事件という汚職事件が有名です)を救ってもらっている関係で西郷隆盛には非常に恩義がある立場ですが、征韓論に関しては明確に反対の立場でした。
西郷隆盛が文字通り晩年の政治生命をすべて投げ込み、敗れた征韓論層について、これらの人たちはどういう言葉をかけたのでしょうか。
ドイツで西郷隆盛の写真が発見された経緯
リンク先のサイトはすべてドイツ語なので、発見の経緯などの説明を下でさせていただきます。
この西郷隆盛の写真を持っていたのは、明治時代、横浜に住んでいたドイツ人ビジネスマンの家族です。
「ドイツで発見」ということで「このメンバーは外遊(海外視察)なんて出てないはずだけど?」と思われる方もおられるかもしれませんが、
当時横浜に来日していたドイツ人が、故郷のドイツに持ち帰った写真というわけですね(これなら不自然ということはないかもしれません)
写真の所有者はユリウス・ヘルムという人で、その家族が所有していた写真に西郷隆盛が写っているというのです。
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1874年に陸軍省で撮影?
この写真は、明治7年(1874年)に陸軍省で撮影されたと説明されています。
西郷隆盛は明治6年の政変(1873年)で参議を辞めて鹿児島に帰りますから、この直後のタイミングということになります。
西郷隆盛はすでに参議という政治職は辞職していますが、陸軍大将という地位についてはそのままで下野しています。
そのため、陸軍省に出入りしていたとしてもそれほど疑問はないといえるかもしれません。
政府首脳が西郷隆盛を説得していたシーン?
1874年というと、3月に江藤新平が佐賀の乱を起こす年です。
当時の明治政府閣僚(まさに写真に写っている山県有朋や西郷従道)にとって、江藤新平と呼応して西郷隆盛が反乱に立つのでは…というのは非常に気にかかる部分で徹底的にマークしていたはずです。
そんな西郷隆盛ですから、新政府の人間から暗殺されても不思議では状況です。
東京で、しかも顔をさらすことになる写真をのんきに撮影…というのはどうなんでしょう。
いやいやさらに考えると、これだけのそうそうたるメンバーがそろっているのは下野した西郷隆盛を政府の首脳たちが説得に当たったという場面だったのか…と興味は尽きません。
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西郷隆盛の写真の発見が話題になった理由
西郷隆盛の写真の発見がニュースになったのはなぜ?
今まで1枚も見つかっていなかったからです。
以下は歴史マニアの方にとっては蛇足になるかもしれませんが念のため。
西郷隆盛といえば、上野公園にあるでっぷり肥えた巨漢の銅像を思い浮かべますよね↓
しかし、西郷の奥さん(3番目の妻の岩山糸子)はこの銅像を見て「こげんなお人じゃなかった!」と叫んだそうです。
というのも、この銅像は西郷隆盛が死んでから21年も後に作られたもので、実際の姿とは全く違うという説があるんです。
西郷隆盛は生前に1枚も写真を撮らなかったといわれ、彼の死後に彼の姿を似せた銅像や絵を描くのはとても難しかったのです。
(西郷が写真を撮らなかった理由としては「自分の顔に自信がなかった」「暗殺を恐れていた」など色々な説があります)
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教科書の有名な肖像は似顔絵
また、教科書に載っている有名な肖像(次の項目で掲載↓)は西郷の死後に描かれた「似顔絵」です。
肖像が描かれた時点で当の西郷は死んでいますから、この絵は西郷の親戚筋にあたる2人の人物をモデルに描いたものなんです。
西郷隆盛の肖像画のモデルは西郷従道と大山巌
この肖像は、西郷隆盛の顔に似ていると言われた西郷従道(弟)と大山巌(従兄弟)をモデルに描いたと言われています。
顔の上半分は西郷従道、下半分は大山巌を参考にしたそうです。
この2人についても今回発見されたドイツの写真(上で紹介)に登場しますから、本当に似ているか?を検証してみても面白いかもしれませんね。
ちなみに西郷隆盛の肖像画を描いたのは、エドアルド・キヨッソーネというイタリア人です。
キヨッソーネは明治維新の際に来日し、大蔵省紙幣局(今の国立印刷局)で印刷技術の指導を行い、日本の紙幣や切手の印刷に関わりました。
なお、西南戦争時にルモンドの速報記事の挿絵として描かれたものとしては以下のようなものもあります↓
まとめ
今回、ドイツ発見の西郷隆盛の写真が見つかるまで、西郷が写った写真は一枚も残っていませんでした。
そんな理由で今回の発見は大ニュースになったというわけですね。
このユリウス・ヘルムの写真が本物なのか、偽物なのか?はまだはっきりとはわかりません。
死後に敬愛され続けている西郷隆盛の本当の姿はどんなものだったのか?はとても気になるポイントですね。
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