西郷隆盛の功績って?結局何をした人?
幕末期~明治維新直後に最強の権力をにぎった男。
幕末の偉人として有名な西郷隆盛。
しかし、「西郷隆盛の功績は?実際に何をした人?」と聞かれるとちょっと答えにつまる…という方もひょっとしたら多いのではないでしょうか。
今回は西郷隆盛の功績についてわかりやすく紹介させていただきます。
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西郷隆盛の功績:結局何をした人なのか?
西郷隆盛の功績は、①幕末期と、②明治維新後の2つの時期に分けて考える必要があります。
まずは幕末期の西郷隆盛の功績からみていきましょう。
①幕末期の西郷隆盛の功績
幕末期の西郷隆盛の功績としては、以下の3つが重要です。
①幕末期の西郷隆盛の3つの功績
- 薩長同盟の決断をしたこと
- 鳥羽伏見の戦いで勝利したこと
- 江戸城無血開城の決断をしたこと
以下、順番に解説させていただきます。
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幕末期の功績1.薩長同盟の決断をしたこと
幕末期の西郷隆盛の最大の功績と言えば薩長同盟の決断をしたことです。
薩長同盟というのは、分かりやすくいうと江戸幕府を倒すために薩摩藩と長州藩の盟約のことですね。
この薩長同盟がどれぐらい重要かというと、これがなかったら明治維新はまず実現していなかったというぐらいのことです。
薩長同盟以前には薩摩藩と長州藩はライバルとしてきびしく対立していました。
幕府を除く藩の中では「最強のツートップ」だったこの2つの藩ですが、決定的なまでに仲が悪かったのです。
西郷隆盛の薩長同盟の決断が、討幕の流れを作り出した
一方で、この2藩が手を組めば、幕府を倒すことが可能になります。
薩摩藩の実質的なリーダーであった西郷隆盛は、幕府を倒すために私情を捨て、長州藩と手を結ぶことを決断したのです。
この薩長同盟によって長州藩に攻め込んでいた幕府は大きく計算を狂わされ、時代の流れは一気に討幕へと進んでいくことになります。
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幕末期の功績2.鳥羽伏見の戦いで勝利したこと
長州藩+薩摩藩と、徳川幕府が実際に武力でぶつかった最初の戦いが鳥羽伏見の戦い(京都)です。
この戦いはまさに幕末期における「天下分け目の決戦」です。
軍勢の数でいうと、長州藩と薩摩藩の連合軍5000人VS幕府軍15000人ですから、圧倒的に幕府の方が優勢でした。
3倍の数の敵に勝利した西郷隆盛の功績
当時、薩摩藩のリーダーであった西郷隆盛は軍勢を率いてこの戦いを勝利に導きます。
初戦の勝敗は後の戦いに決定的な影響を与えたでしょうから、西郷隆盛の功績は非常に大きいといえます。
なお、この鳥羽伏見の戦いからスタートする約1年間の戦いのことを戊辰戦争と呼びます。
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幕末期の功績3.江戸城無血開城の決断
鳥羽伏見の戦いに勝利した後、西郷隆盛は新政府軍(薩摩藩・長州藩を中心とする清涼)を率いて関東地方に進軍していきます。
連戦連勝を重ねる新政府軍は、やがて徳川幕府の根拠地である江戸城に行き当たります。
当時の江戸は100万人の人口を抱える世界最大の都市ですが、江戸城を戦闘で陥落させようとすると江戸の町が火の海になることは目に見えていました。
各地で勝利をおさめていた新政府軍は、江戸に総攻撃をしかける準備をしていました。
西郷隆盛と勝海舟の会談
しかし、まさに江戸への攻撃が開始される直前に、情勢の変化が生じます。
新政府軍のリーダーである西郷隆盛が、幕府側の中心人物であった勝海舟と会談を行うのです。
この会談により、幕府軍は江戸城を明け渡すことを決め、江戸への総攻撃を行うことなく新政府軍は江戸を手に入れることに成功します。
無血、すなわち血が流れることなく城が明け渡されたということは、世界史の中でも非常に稀なことでした。
西郷隆盛の功績が無ければ、現在の東京の街もなかった?
この後に江戸は東京と改められ、明治新政府の首都となります。
もし西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城会談が行われていなければ、江戸の町は壊滅的な状況になっていたでしょう。
そうなると明治新政府の首都は別の場所(京都など)に置かれたでしょうから、現在の東京都の発展もなかったかもしれませんね。
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②明治維新後の西郷隆盛の功績
明治維新が成立した後は、西郷隆盛はどんなことをしたの?
廃藩置県を断行したのが大きい。
(しかしその後は破滅の道へ…)
明治維新後の西郷隆盛の功績と言えば、廃藩置県を主導したことがあげられます。
上で見た①幕末期の西郷隆盛の功績から引き続いて、②明治維新後の西郷隆盛の功績についてみていきましょう。
明治維新後、西郷隆盛は鹿児島にいた
江戸城無血開城の後も、西郷隆盛は上の戦争などで軍隊の指揮をとるなどしていましたが、戊辰戦争の情勢がほぼ決まった時点で故郷の鹿児島に帰っています。
しかし、明治新政府の課題は多く、政治家の腐敗の状況を聞かされた西郷隆盛は薩摩藩兵を率いての上京を決意します。
このタイミングで最優先課題として問題となっていたのが明治新政府による廃藩置県です。
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廃藩置県とは?
廃藩置県とは、その名の通り「藩を廃止し、県を置く」ということです。
江戸幕府の時代は、幕府は徳川家が直接支配している地域以外(藩)については支配を及ぼしていませんでした。
いわば江戸時代は「地方自治の時代」で、各藩にはそれぞれ殿様がいて、それぞれ割と自由に統治を行っていたのです。
結果として、強大となった薩摩藩や長州藩といった藩によって、徳川幕府は倒されて今います。
明治新政府は江戸幕府と同じ失敗をしないよう、全国の藩を廃止してすべての土地と人民を明治新政府のものとします。
この時に置かれた各地の行政区分が現在の都道府県のルーツになっているわけですね。
軍事力によるプレッシャーを背景に廃藩置県断行
明治新政府の基盤を強固にするため、廃藩置県は絶対に必要なことだと考えていた西郷隆盛は大久保利通らと会議に参加します。
廃藩置県は「江戸時代の藩主たちをクビにする」ということでもありますから、当然、反対論がおこることが予想されました(当時、藩主たちは東京に集まっています)
西郷隆盛は薩摩藩の兵を率いて上京し、旧藩主たちに無言のプレッシャーをかけます。
そして、「もし廃藩置県を行い暴動などが起きれば、すべて自分がおさめる」と宣言したのでした。
この西郷隆盛の一言が決定打となり、大した反対論もなく廃藩置県は実現することになったのでした。
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その後の西郷隆盛
その後の西郷隆盛は、いわば破滅に向かった道をたどることになります。
その発端となったのが西郷隆盛が中心になって主張した「征韓論」です。
征韓論とは?
征韓論はその名の通り、鎖国状態にあった朝鮮半島を征伐しようという動きのことです。
西郷隆盛が征韓論を主張した背景としては、当時失業状態にあった旧藩士たちの強い不満があります。
具体的には秩禄処分(給与カット)や廃刀令(刀の取り上げ)、徴兵制の実施(旧藩士たちの役割を奪う)など、旧藩士たちの特権を奪う政策が次々と打ち出されていたのです。
これらの旧藩士たちの不満を放置していると、各地で明治新政府に対して反乱がおこる可能性がありました。
旧藩士たちのこの有り余るエネルギーを外国との戦争に向けることで、西郷隆盛は反乱を押さえようとしていたと思われます。
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征韓論が取り上げられず、西郷隆盛は辞職
結局、西郷隆盛が主張した征韓論は、かつての同志である大久保利通などの反対により却下されてしまいます。
政治生命をかけて征韓論を主張していた西郷隆盛は政府の役職を辞職して鹿児島に帰ります(西郷隆盛が率いてきていた薩摩藩兵も西郷隆盛と一緒に鹿児島に帰ります)
西郷隆盛を反乱軍のリーダーに担ぐ旧藩士たち
この時点で最高の権力と声望を持っていた西郷隆盛が、不平藩士でごった返している鹿児島に戻ってきたわけです。
彼は当然、不平士族たちによって反乱軍のリーダーとして担ぎ上げ挙げられてしまうことになります(これが西南戦争です)
>>西南戦争とは別の形(自由民権運動)で戦った人たちの話はこちら
西南戦争の経過
西南戦争が始まる少し前、西郷隆盛は鹿児島で私学校を設けています。
西郷隆盛は、旧薩摩藩士たちに文武や農業を教え、正しい日本人の心をもった人材の育成に力を注いでいました。
しかし、西郷隆盛の統率力に脅威を感じていた、明治政府が反乱を警戒します。
彼らの軍事的な勢力をそぐため、明治新政府は鹿児島の弾薬庫から火薬類を秘密裏に搬出しようとします。
これが騒ぎになり、もともと明治政府に悪い印象をもっていた私学校の若者たちが集まり戦争へと発展していくことになります。
明治政府と戦う気はなかった西郷隆盛ですが、若者たちを制止できずに、自らも戦いに参加することになったのでした。
なぜ西郷隆盛は反乱に立ったのか?
西郷隆盛が戦った理由は、名目上は士族の特権保護を主張するためと言われています。
結果的に、郷隆盛が率いる旧薩摩藩軍は明治新政府軍によって鎮圧されることになります。
西郷隆盛は鹿児島県城山の地で「もうここらでよか」の言葉とともに終焉を迎えます。
西郷隆盛は、戦わずに対話で解決することを私学生たちに伝えられなかった自責の念にかられていたといいます。
彼はついには部下に首を刎ねさせ、51年の激動の生涯に幕をおろすのでした。
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まとめ
今回は、西郷隆盛の功績について具体的に解説させていただきました。
彼は統率力に長けた、まさに時代のカリスマと言っても過言ではない存在でした。
西郷隆盛が江戸城無血開城により江戸を救ったことは現在の東京の発展のもとになっていますし、廃藩置県を断行したことによって現在の日本の在り方に影響を与えたことは間違いないでしょう。
また、西南戦争によって腐敗が進んでいた明治新政府の在り方にNOをつきつけたことも、当時の官僚や政治家に大きなショックを与えたものと思われます。
西郷隆盛は、現代の日本人に対しても物心両面から大きな影響を与えている人物といえるでしょう。
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